自分の中の恐れ
前述までで、私をある程度は分かっていただけるかと思います。
毎度、有難いお言葉本当に有難うございます。
昨年度末、きっかけがあり今年に入ってから5年ぶりくらいに実家へも帰省しました。
実家から戻ってきてからの自分の行動も自分自身で変わったと思う部分もあり、気分に左右されず自分の決めたことをやりながら目指すものに向かおうとしています。
自動車学校ではありますが、学校という名のつくものに行けていることは私の中では奇跡と言ってもいいくらいです。「俺行動できてるじゃん」そう思えたことがすごく嬉しいです。
しかし、最近になって気づきました。私が変わったのは、一定の範囲の中だと。できることが増えて、できないことから逃げてるることには変わりないです。
それは大学での一件です。思い返せば全てそのせいにしてしまっています。
いずれは、自分自身が死んだ後から遡ってなりたい人間はこういう人間だと考えるなら、必ずといっていいほど乗り越えられないといけない壁だと思っています。
他人から見ればその程度、けれども自分から見たらとんでもなく思い作業でありそういう事もそれぞれあるかとは思います。
今までの私であれば、大学当時のせいにしてそれに焦り絶望し自分を悲観しそれに飲まれていたのかとも思いますし、だからといって飲まれないことなどないありません。日々自分に負けないように必死です。
私がいきたい場所はもっとうえです。偉そうに言いますが、仏様に近い人間であると言ってもいいと思います。
それ相応の行動が必要です。行動できた自分。起きたことの悲惨さのせいにしてしまって行動できない自分。両方存在し、すごく葛藤しています。
誰も分からないでしょうが、戦争から帰還したのに、なぜ生恥を晒すのだと、自害しろと言われているような気分でした。
しかしそれが抜けてないのです。
変わった部分はあるかもしれませんが、1番大事な本質的な部分では変われていないことに気づきました。それが毎日悔しいです。最近になり逆菩薩という言葉を知りましたが、どこまでもそういう人生なにだろうと思うところもあります。
だとするなら、私が今やるべきことで、できることは自分の決めたことを精一杯やることだけでしょうか?その行動の、反省の厳しさによって、未来が変わってくるにでしょうか?
私は、どうするべきで、どうしたらいいのでしょうか?
有り難し 3
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