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「お釈迦様・ブッダ」問答(Q&A)一覧

仏陀の言葉がわからない

ご閲覧ありがとうございます。仏陀の教えについて知りたく本を購入したのですが、しょっぱなから疑問が多数あり行き詰まっています。もしよろしければ以下の質問にお答え頂きたいです。 さいの角より 1「また子を欲するなかれ。」 とこの後の 2「況んや朋友をや。」 3「愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情からわざわいの生ずるのを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 4「朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされるとおのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 1、子を欲しがるなとは、どういう意味でしょうか?見たまま考えると人類が終わってしまいます。読解力のない私にお釈迦様の意をどうかお教え下さい。 2、これは「精神的な自立を完全に目指すためには、他者に依存してはいけない。また、友とは欲しがらなくてもできるものである」という意ととらえましたが自信がありません。 3愛情はわざわいのもととなるので、愛情を持つな、という意味ではないと思うのですが私には他の答えを見つけられませんでした。 4こちらもまた私が考えても、自分が損をするので友人が困っていても助けるな、親しみをもつな、となってしまいます。これは損をするけどそれも含め理解した上で友人を助けよ、ということでしょうか。 このように、私の読解力ではお釈迦様の考えは非常に破滅的で自立というより孤立しそうなのですが、もちろん本当はこのようなことではないと思っています。 しかし、ネットで色々調べていると「釈迦の考えは非常に危険なものである」「釈迦の教えは一生独身ニートになることである」とする本まで出てきて、よくわからなくなってしまいます。 まだ読んで本当に最初の方なのにこんなに行き詰まって大丈夫でしょうか。 今後の人生にかかわるほど自分に重大、必要なことが書かれていると感じるのに、頭も要領も悪い自分に理解できるものなのか不安で仕方がありません。

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釈尊と非我 龍樹と無我

凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。

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