知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
ご閲覧頂きありがとうございます。 お釈迦様が病気になられた時のお話、母が子を亡くした時のお話など、お釈迦様の逸話を何度か聞いていたのですが、恐らくお釈迦様の逸話で伝えたかったことは「何かを失って悲しむのではなく、そもそも持っていた(もしくはあった)こと自体が当たり前などではなく、非常にありがたいことなのだと気づくべきである」ということだと思いました(違ったらすみません。)。 病気になっても、そもそも今まで健康だったことがすばらしいことだったのだと。 そこで質問なのですが、生まれてから当たり前に与えられたもの、環境を「当たり前などではなく、ありがたいこと」として心から思えるようになるにはどのような心がけや、見方をしていけばいいのでしょうか。 頭では「奇跡だ、すばらしいことなのだ」と理解していても感情がおいていけぼりになってしまいます。 物事やもののひとつひとつにそう思えるようになったならば、まさに生きながらの成仏のように幸せになれると思っているのですが。
ご閲覧ありがとうございます。仏陀の教えについて知りたく本を購入したのですが、しょっぱなから疑問が多数あり行き詰まっています。もしよろしければ以下の質問にお答え頂きたいです。 さいの角より 1「また子を欲するなかれ。」 とこの後の 2「況んや朋友をや。」 3「愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情からわざわいの生ずるのを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 4「朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされるとおのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 1、子を欲しがるなとは、どういう意味でしょうか?見たまま考えると人類が終わってしまいます。読解力のない私にお釈迦様の意をどうかお教え下さい。 2、これは「精神的な自立を完全に目指すためには、他者に依存してはいけない。また、友とは欲しがらなくてもできるものである」という意ととらえましたが自信がありません。 3愛情はわざわいのもととなるので、愛情を持つな、という意味ではないと思うのですが私には他の答えを見つけられませんでした。 4こちらもまた私が考えても、自分が損をするので友人が困っていても助けるな、親しみをもつな、となってしまいます。これは損をするけどそれも含め理解した上で友人を助けよ、ということでしょうか。 このように、私の読解力ではお釈迦様の考えは非常に破滅的で自立というより孤立しそうなのですが、もちろん本当はこのようなことではないと思っています。 しかし、ネットで色々調べていると「釈迦の考えは非常に危険なものである」「釈迦の教えは一生独身ニートになることである」とする本まで出てきて、よくわからなくなってしまいます。 まだ読んで本当に最初の方なのにこんなに行き詰まって大丈夫でしょうか。 今後の人生にかかわるほど自分に重大、必要なことが書かれていると感じるのに、頭も要領も悪い自分に理解できるものなのか不安で仕方がありません。
以前、般若心経について書かれた本を家で見つけ、読んでみました。 その中に、「お釈迦様の幸せとは」というタイトルがありました。 私にとっての幸せは、無い物ねだりというのもありますが、心豊かに善の道へ進むことだと思っています。 しかし、生は苦と言いますし、なかなか実現しにくい、ただの欲望なのでしょうか。 お釈迦様の幸せなことって、なんでしょうか。 いろいろな考えを聞けると嬉しいです。
初めまして、さきといいます。 最近、聞き上手や話し上手になる為の本を、書店でたくさん目にします。 それだけ現代人が人間関係に悩んでいる証拠なのかなと思いました。 そういった本とブッダの言葉が書かれた本とでは、書かれている内容がところによっては真逆といってもいいほど違うように思います。 聞き上手になる為には、少しオーバーリアクションになったり、ひどい時には、凄いなと思っていないのに凄いと言うことも、相手を喜ばせて話を引き出す為には良いと書かれている本さえありました。 私的には自分を偽ることが嫌いなので、素直な感想を言うことが多いですが、話を盛り上げる為には、多少のオーバーリアクションも必要だと感じる時があります。 お坊さんたちは、こういった本についてどのようにお考えですか? 是非、ご意見をお聞かせください。お願いします。
悟りをひらいたブッダのような心は、何を美しいと感じるのでしょうか?美しいと感じるのでしょうか? 朝日や夕焼けなどの自然を美しいと感じるのは何故なのでしょうか?
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
以前友人に新興宗教に誘われた時、ご本尊様であるお釈迦様の写真を買い、お仏壇に飾っています。(現在も。仏壇には御先祖様の位牌は、ありません)今は脱会する為に写真は友人に渡す事になりましたが、同じお仏壇(旦那が手作りしました)に他国の(タイやインドの土産品店にあるシンチュウの物を検討してます。)お釈迦様の像など、置いてもいいでしょうか?ちなみに、これからは、家の近くにある臨済宗のお寺に通いたいと思っています。どのようにしたら良いのか、教えて下さい。宜しくお願いします。
凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。
初めて投稿します。 「悟り」に関する質問です。 「悟った人」というのはいないと解釈しています。 何故ならそこに個人的なこととして捉える「個人」の消滅だと認識しているからです。 だとしたら、何故仏教の教え、というものが存在するのでしょうか? そもそも救われていない個人はいないし、救いが必要な人も、仏陀からしてみたら見えていないと思うんです。個人的な自由意志と選択があるのは幻想の中だけで。 お弟子さんが広めたんでしょうか? その教えには、個人の自由意志と選択の余地があることを説かれているのでしょうか? ほとんど知識がなく申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
こんばんは。 みなさまのお話を聴いて、毎日現実を生きていけるようになりました。 すごく気持ちがいいです。 改めて、ありがとうございます。 質問の内容なのですが、わたしが子どものときに、テレビのアニメで、仏様かお釈迦様かちょっとよく覚えていないのですが、桃の実を手にもたれていたのを見ました。 わたしは、それがすごく印象に残っていて、桃の実が大好きです。 仏様と桃の実って、どういう関係なのですか? 子どものときに見たお話なので、仏様がなんで桃の実をもたれていたのか、まったく覚えていないのです。 すごく知りたいです。 よろしくお願いします。
今月の頭に、有名な神社に行って、家の間取りや、家族の原因を見てもらいました。今は良い方向に向かっているので、本当に感謝しています。 お釈迦様のお話を聞き、すごく知りたくなったのですが、 生き方について学びたいなと思っております。 お釈迦様を深く知りたいのですが、どうやったら知ることができるのか教えてください。
私は小さいころ仏教系の幼稚園に通っていました。 その幼稚園では4月になるとお釈迦様の誕生日を祝う儀式の日があってその日に仏像に甘茶をかけたことを覚えています。 そこでふと思ったのですがお釈迦様と甘茶をにはどんな関係があったのでしょうか。それがどう転じて誕生日を祝う際に用いられるになったのか経緯が気になりましたのでもしよろしければお教えいただければ幸いです。
御釈迦さんがカラマ・スッタで何々だからといって信じてはいけないと言っていますが、なら御釈迦さんはどうやって物事の虚実を知ればいいと言っているのでしょうか?