回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人間の都合を離れて眺めれば元々すべてが平等
ここで申し上げる平等とは、人間の損得感情による平等ではありません。
人間の自分を中心としたものの見方で世界を眺めれば、どんな顔に生まれてくるか、どこの家に生まれてくるか、みんなバラバラです。
誰でも24時間は平等です。
太陽も月も観る国によって角度は異なりますが平等に照らしています。
この世は「自分」よりも先に実相、事実、法則がそこに先にあります。
その法則は人間の言うところの平等不平等ではありません。それが仏の平等というものです。
人間様の言う平等というものとは少し意味が異なります。
自身を「私」であると「自分」を認めるものには平等だとは思えないものです。
人間の苦しみや不満や不平は「自分越しに」ものごとを眺めることから起こります。
まず、本当にあなたが楽になりたければ、
「自分自分した自分」を捨ててしまう事で、あなたの描いている理想的な幸せよりももっと大きな幸せが手に入るでしょう。
「自分自分した自分」は無自覚なものです。
私はそんな自分自分しているつもりはないと思っても、無自覚ながらに働いてしまっているものです。
仏教を学ぶ上で気を付けなければいけないことがあります。
「自分」を強く認めたうえで、仏教を求めないことです。
何がいけないか。
自分を強く握っている人は、仏教が目指させるところとは正反対の方向にいるからです。
私もかつて自分越しに仏教を学んでも何も役に立ちませんでした。
役に立つたたないという事ではないですが、仏教を学びつつも「自分自分した自分」や「自分の理想とする、理想的仏教ものがたり」を手放せないという事は、どこまでいってもそれは「わたくし」というエゴWORLDの延長線上なのです。
思い切って、あらかじめ先立てている想定ごと、期待、ルールを捨ててみましょう。
あらかじめもらいたいことが決まっているという事は自分を不自由にさせることだと思いませんか。
私の答えは、あなたの言ってほしいことを言う事であなたのエゴを満足させることではありません。
あなたにより大きな幸せに気づいて頂く為に、あなたの事前の想定を奪い去ってでも、無自覚な「自分自分した自分意識」を奪い去ることです。
仏教を学んでいるつもりでも、それが働いている事で自分を苦しめるからです。
いつまでたっても、変わっていかないのはそれが根底にあるという事。そこにお気づき頂ければ、人生が変わります。
佛教の法(真理)は平等です
質問者からのお礼
百目鬼洋一 様
良かったです。
有り難うございました。
丹下 覚元 様
私が私を認める事もしてはいけないのですか。今までもこれからも。私はやはり道具ですかコマですか
丹下様、有り難うございました
丹下覚元 様
おはようございます。
ごめんなさい。
私、死のうとしてた。いろんなお坊さんが手を差しのべてくれてるのに、その手を振り払って辛いと言ってた。
丹下様、ごめんなさい。