ブッダの一番言いたかったこと
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・
ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)?
大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある)
菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誠実に生きなさい。さすれば安楽に赴くでしょう
突き詰めればこれに尽きると思います。詳しくはこちら。
http://hasunoha.jp/questions/3160
さて、深いご質問が複数ありますので言葉足らずにはなるでしょうが順番にいきましょうか。まず、仏教全宗派の根底には『縁起思想』があります。リンク内で軽く説明しています。
この縁起思想に繋がらない伝統仏教の宗派は存在しません。リンク中の言葉で言いますと、密教と禅宗は色即是空、一即一切、一念三千のお経すべてと関係が濃く、日蓮宗は一念三千のお経に特化。浄土系宗派では阿弥陀さまに関する別のお経に特化していますが、「阿弥陀さまに全てお任せしましょう」「お任せするという心が個としての私への執着を無くすのです」の後者までちゃんとお話を聴けば同じだと得心できるはずです。
宗教としての儀式が…の件につきましては、おそらく「神を信じなさい。信ずる者は救われます」的な信仰儀礼と捉えていらっしゃるのではないでしょうか?よくある誤解です。儀礼と言っても色々あるのですが、例えばお葬式は戒を受けて仏弟子となるいわば洗礼式のようなことをしています。法事とはお釈迦さまの時代からありまして、本来はお坊さんを自宅に招き、食事の供養をし(お斎の席)、法話を聴くというものでした。仏の教え=法に触れる場です。読経だって法に触れる修行です。あるいはご祈祷は心を清く真っ直ぐに調え、事に当たろうということであって神頼みではありません。仏菩薩を礼賛する儀式もありますが、それこそ「お任せするというその心が個としての私への執着を無くす」のであって、謙虚さと慈悲を湧き起こすものです。まだまだ挙げきれないほど様々なタイプの儀礼があります。そこまで突っ込んで学ぶとグッと楽しくなりますよ。
菩薩は大乗仏教が発生時のスローガンです。僧院仏教と言いまして、ある時期の仏教が特定のパトロンからの支援のみで食っていけるようになり、学術的・思想的研究にはまり込み、衆生の救済から離れていました。それに対して「それってお釈迦さまが目指した生き方じゃないでしょ?おたくらが話を盛った『仏』にならないと衆生の救済はできないってんなら、俺ら『仏』なんかにならなくていいよ!菩薩でいいから目の前の人を助けに行くよ!」と主張した潮流が大乗仏教へと繋がります。
おおむね仏像は真理の象徴、菩薩像は救済の象徴と捉えればオッケーです。
解脱するには
マイカさんへ、こんにちは。
前質問を読んで、良く勉強されていて関心していおります。
さて、仏陀の説かれた教えをどう解釈するかで、仏教グループの発展が変わっていきます。いわゆる南方仏教は比較的仏陀の説かれた教えそのものを大切にしているのに対し、仏陀の教えが形にとらわれない柔軟性を持っていたが故に、大乗仏教グループは仏陀の言いたかった真意は何か?を追求することになります。
そこから史実としては仏陀が発言していない教えが、たくさん作られて大乗仏教経典ができあがります。現代風にたとえると、大乗仏教経典は、仏陀という史実を借りて、仏陀の真意はこうだと、たくさんの仏陀の小説が書かれたということです。だから史実の仏陀だけを真実の教えだと追ってしまうと、大乗仏教は理解できなくなります。今、マイカさんはここに陥っているのです。
・・・で、仏陀が一番言いたかったこと。仏陀の目的は輪廻転生の「解脱」にあります。その解脱の悟りとは「縁起」になりますが、それを大乗仏教では仏陀の悟られた「縁起」の真意はこうなのだと華厳経等に説かれています。「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧、徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ての故に証得せず」
これが縁起をただの苦しみからの解脱のための教えにとどめるのではなく、仏陀と同じ成仏ができる教えとする大乗仏教に共通する目的です。
あと大乗仏教で登場する菩薩は、仏陀の王子時代をモデルにしています。だから仏陀像と違い、王子モデルの菩薩は、宝飾で着飾られています。仏陀が悟る前は王子であった史実を受けて、前世から修行してきたであろう仏陀の前身を菩薩と称し、われわれも成仏の前だから菩薩でなければならないと理想の修行モデルを設定したわけです。
合掌
「不放逸なれ」
マイカ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
釈尊は、最期の教えとして、「もろもろの事象は過ぎ去るもの(無常)である。怠ることなく修行を完成なさい。」とおっしゃられました。
「不放逸(ふほういつ)なれ」。
これが最期のお言葉であり、大切な釈尊のお言葉の一つと考えられます。
釈尊は、悟り・涅槃へと向けて、「善き巧みなる方便」により仏教を説示なさられました。
「対機説法」、「応病与薬」です。
もちろん、大乗仏教もその内に包摂されるものでございます。
しかし、大乗や他の分類云々は、あまり分けて考えられても意味のないことであると考えております。
とにかく、釈尊の教えの全てには、聖なる四つの真理、「四聖諦」が原理的に控えているとお考え下さい。
「・・仏教における教えの中でも、その要諦となるのが、何よりもお釈迦様が最初に教えを説かれた「初転法輪」の中での「四聖諦」であり、それは、例えば、私たちは、代表的に八苦する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみという結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを滅することができ、更に、仏道の実践によって、悟り・涅槃へと至るための因縁もしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法論を、お釈迦様が、対機説法、善巧方便を駆使なさられてお説きになられたのであります。・・』
そのお教えを、それぞれに合った「カタチ(合うカタチも因縁(原因と条件)によって様々に変化していく)」にて、怠ることなく学び修することにより、しっかりと悟り・涅槃へと向かって参りたいものでございます。
菩薩は、智慧と福徳(功徳)の修行実践者のことであり、その中でも、特に、福徳を修習するのに重きをおいている者のような印象がありますが、皆、悟り・涅槃へと向けては、智慧と福徳(功徳)の修習に取り組むべきことになります。修行実践者の一つの「カタチ」として、それもあまり分けて考える必要もないかとは存じます。
「不放逸」にて仏道に取り組んで参りたいものでございます。共に頑張りましょう。
川口英俊 合掌
浄土宗としては
ブッダの教えは大雑把に言えば、自分の心をしっかりコントロールすれば、あらゆる苦しみを取り除く智慧が生まれますよ。楽に生きられますよ。ということだと思います。
ですから瞑想によって心をしっかりコントロールすることをすすめ、その為の環境を整える為に戒律を守るように説いたのです。
大乗仏教全般を詳しく知らないので、浄土宗について言えば、
浄土宗ではこの戒律が代々受け継がれていて、今でも守るように努めています。
また、ほとんど坐禅をしませんが、念仏により阿弥陀仏への信心を深めることに重点を置いています。
そして、信心を深め、死後の事を阿弥陀仏にお任せする事によって、死についての不安や恐れや悲しみの心をコントロールしているのです。
つまり、ブッダの教えと方法は違いますが、楽に生きる為に心をコントロールすることは決して矛盾はしていないのです。
儀式も同様です。
葬儀では、故人が極楽浄土に阿弥陀仏によって連れて行ってもらうのを皆様と共に念仏を称えてお見送りするのです。
年忌法要も、極楽浄土に居られる故人やご先祖様に感謝し、自分も極楽浄土に行けますようにと阿弥陀仏にお願いするのです。
ただ、法話などで浄土宗の教義の話をしつつも、法句経(ダンマパダ)などのブッダの教えも説くこともあります。
生きる上では法句経の教えはとても良いですからね。
また、多くのお経の中にはブッダの教えも散りばめられています。なぜなら大乗仏教の経典を作ったのはブッダの仏教(上座部仏教)の僧侶達だからです。
菩薩というのはブッダ(悟った人)になる手前の人のことです。
大乗仏教では自分が悟りに至れていなくても他人を助けようと考えます。この人を菩薩といいます。
ブッダの仏教(上座部仏教)では自分が悟りに至ってから他人を助けようと考えます。菩薩は存在しないのです。助けるのはブッダの役目です。
本来は後者の方が正しいのです。
悟りに至れない人に他人を(悟りに至るのを)助けることはできないのですから。
しかし、目の前で苦しんでいる人を何とかしたいと思うのは当然のことですよね。
ですから、前者の大乗仏教や菩薩が中国や日本では受け入れやすく、広がったのだと思います。
質問者からのお礼
●染川智勇様 私の問題の根の部分をしっかりと抑えてご説明いただいたことがとても嬉しく自分の抱いていた疑問を理解してくださったことに心から感謝致します。新しい発見、まさにお言葉の中に沢山の発見がありました。歴史的にきちんと把握して理解することの大切さも改めて感じました。ブッダのいう悟りの教えをある意味で新たに解釈することによて大乗仏教の視点からブッダの真意を問うという形を用いて、また成仏できることを「信じる」という実践の仕方をも取り入れて、多くの人びとに「救い」という形でブッダの悟りの境地への道を開く‥。もっとしっかりとその道程を勉強したいと新たに感じました。本当にありがとうございました。
●川口英俊様 いつもご丁寧にお返事をありがとうございます。分類などにとらわれず、釈尊の教えの根底をしっかりと抑える大切さを気づかせて頂きまして大変感謝しております。教えの根底の4つの心理を原則として、その表現がいかに様々であっても、同じ結果を求めて「不放逸」を忘れずに、しっかりと歩んでいくことの意味を再確認いたしました。詳しく四聖諦についてご説明いただき、大変大変勉強になりました。いつもこのように専門的な用語を教えていただけることは非常に嬉しく感謝しております。しっかりと勉強したいと思います。
●大慈様 縁起思想につながらない宗派はなく、任せるという心が個としての私への執着をなくし謙虚さと慈悲をわき起こす、という言葉は非常にわかりやすく心にすんなり入りました。儀式‥というのは何かとお金のかかる儀式が多いような印象があり、日常のroutineになっているような感があり(いい意味でも悪い意味でも)気になっていました。また、菩薩の存在、仏像が真理の象徴、菩薩が救済の象徴というご説明、大変こころにのこりました。いわゆる一神教の神的なものとして(信じれば救われる的な)崇めるのではなく、あくまで象徴と捉えることができれば私には理解しやすくなります。本当にご丁寧なご説明をありがとうございました。
●聖章様 道のりこそ違っていても根底にあるものは矛盾しない、そして実際の実践面では様々なブッダの教えも説かれているということ、悟りへの道のりとその表現の形が違うが、根底はブッダの教えにあることを重要視しているということ、貴重なお話をありがとうございました。悟ったブッダが本来救うべき、でも現実では菩薩の立場でも救おうとする、その必要性というものを生み出した時代背景というものをより知らなければいけないと改めて感じました。非常に重要なポイントをありがとうございました。