ネットの他所でも投稿させて頂いており、マルチ投稿になってしまう事をお許し下さい(そのサイトでこちらを紹介して頂けました)。また場にそぐわない見当違いな投稿内容かも知れませんがその場合もお許し下さい。返答もこのサイトのシステムがよく分からないのですができる限りします。 <br> 母が他界→直葬で火葬直前に依頼した浄土真宗の僧侶さんに来て頂き短い読経を上げて頂く(お布施代3万包みました)(親戚関係者10人弱程度で見送りました)→地元のお墓に納骨した <br> で終わりのはずだったのですが、 <br> 県跨ぎの所に別居中の姉が母に戒名が無いのがいたく気に入らなかったらしく、持ち帰った遺骨で相談無しで姉の近場のお寺で母の戒名をして貰う(←父が同席していたので後で私が知った。戒名の大きい札のようなものも自宅にあります)→四十九日に私が依頼した住職さんにお墓の前で読経して欲しいとの事。 <br> 質問は ・この場合火葬前の読経はどういう扱いになるのか ・その読経をして頂いたお坊さん(住職さん)に再度依頼するのは失礼では無いのか。かなり憤慨されるようなことになってもおかしくないのではないか。別の浄土真宗のお寺に依頼した方が無難では無いのか。その場合宗教的にNGという事は無いのか。 <br> です。補足として、火葬のお坊さんとは家の距離も近く、お寺にも一度来訪しており今後も考えてあまり良くない感情を持たれたくないのです。 <br> ただ、県跨ぎの向こうの僧侶さんに着て頂くのはお車代や移動の負担を考えてやりにくいのも分かります。 <br> なので姉の方でこちらの地域の別の僧侶さんに依頼して貰ってはどうかと思ったのです。私が全く関与しないでやって貰った方がまだ筋が通るように思えるからです(姉に対しては怒りの感情はありません。戒名したいのならこちらに相談してくれればまだ良かったように思います。その方がまだ話の流れがある程度自然だったのでこちらのお寺にも相談しやすかったと思うからです)。 <br> なお姉が戒名したお寺は曹洞宗、20万円で戒名しています。
浄土宗です。 1,釈迦と阿弥陀如来はどのような関係なのでしょうか? 2、寺の本堂や家庭の仏壇に釈迦(釈迦如来)の像が無いのはなぜでしょう? 浄土宗出版の「毎日のおつとめ(日常勤行式?)」の四奉請には「・・・奉請 釈迦如来入場 散華楽 奉請 弥陀如来入場 散華楽・・・」とあります。 よろしくお願いいたします。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
こんにちは。私は現在、浄土真宗の教義を勉強中の者です。 精神的に不安定な日が続いていましたが、お寺や仏教とのご縁ができたことで、少しずつ落ち着いてきました。家に仏壇はありませんが、基本的に1日2回、YouTubeのお坊さんの動画に合わせて、お正信偈と和讃をあげております。また、YouTubeでお説法に触れるなど、仏教のお勉強をしています。 ただ、最近は、「唱えなければならない」「お説法を聴かなければならない」というプレッシャーを感じ始めているような気がしています。それが少し自分を苦しくさせているような気もしています。 根底にあるのは、自分の完璧主義な性格ではないかと思っています。もう少し自分を許して、「唱える回数が減ることがあっても良い」「勉強できない日があっても良い」と思えたらいいなとは思ってはいますが、お勤めや勉強も自分の性格や実態に合わせたペースで大丈夫なのでしょうか。 何かお知恵をご教示頂けたらと思います。お願いします。
現世利益を求めることは卑しい事でしょうか 特に浄土真宗では
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
ご覧いただきありがとうございます。 数日前から浄土の教えについて学び始めた者です。 先に質問を記載させていただきます。 1. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちがわずかでも残っている場合、念仏しても往生できないのでしょうか? 2. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちをなくしていくにはどういった心構えや方法があるのでしょうか? 3. もし、この疑う心について掘り下げた聖人の書物やお言葉等がありましたら、ご教示いただけないでしょうか? 以下、経緯等です。 今、法然上人の『選択本願念仏集』を読んでいる途中なのですが、往生するためには三心を具えなければならないと書かれていました。 この点について『一枚起請文』では次のように書かれているようで、疑念を持たずに信じることで自然に具わるとのことでした。 > ただし三心・四修と申もうすことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。 ただ、正直に申し上げますと、本当に心の底から阿弥陀様と往生を一切の疑いなく信じることは、現時点ではできそうにないと思っています。 徹底できるのであれば、それはもはや凡夫ではなく聖人だと思ってしまいます。 初めて真剣に「南無阿弥陀仏」と口にした時は、ふと心が軽くなり涙が出てきたので、阿弥陀様は「いらっしゃるかもしれない」と思えました。 ただ、それも最初だけの出来事ですし、「かもしれない」という程度で留まっていますし、これを確信であると自分を騙すのも無意味だと思われます。 また、念仏も熱心に唱えられるわけでなく、気が向いた時に小声で口にするような怠け者です。 これまで色々な思想を試してみましたが、「本当に素晴らしい考えだけど自分には徹底して行うのは到底無理だ」と挫折し続け、紆余曲折で浄土の教えにたどり着き、希望を持って学び始めました。 ただ、そこでも自分には難しいという現実に直面してしまいました。 『徒然草』には「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり」との文があるようですが、これも本当にそう法然上人がおっしゃられたのかは不明で、これまた自分には信じ切ることができません。 自分では何もできないにもかかわらず、かといって何も信じ切ることや頼り切ることができず、どんなことも徹底できない自分が浮き彫りになり、絶望しています。 どうか、ご助力いただけますと幸いです。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
先日、当寺で報恩講を行いました。今年はコロナでずっと中止にしていたお斎を出しました。私としては初めての報恩講でのお斎だったので分からないことも多く大変でしたが門徒の女性の方に助けていただきながら何とか終えることができました。 終わってから前住職と前坊守にお手伝いに来ていただいた方には「白い靴下とエプロンを渡さないといけない、それが常識だ そんなのも分からないのか馬鹿者!」ときつくお叱り(怒鳴り)を受けました。なお他の行事でお斎を出したときはエプロン等は自前のを使っていただいています。 特に浄土真宗の僧侶の方にお尋ねいたしますが、報恩講のときは白いエプロンと靴下でお斎を作っていただくのが規則なのでしょうか?(いわゆるお葬式や法事のお手伝いという感覚なのでしょうか)事前の引継ぎもなく誰からも教えていただいていないので驚いたのと共に自分の常識のなさを恥ずかしく思います。
浄土宗のお葬式は故人を極楽浄土に送る儀式とあったんですけど、直葬にしたら成仏できなくるのですか? あるサイトには家族の気持ち次第って書いてあったり、またあるサイトには戒名、読経なしの直葬や炉前読経とかの短い読経だけでは成仏できないとハッキリ書いてありました。 やっぱりお葬式って重要で、やらなきゃ極楽往生も成仏もできないんでしょうか? なんだか物凄く不安なので回答よろしくお願いします。
以前質問して阿弥陀様はどんな人を救ってくれると聞いて安心していましたが、他の宗派があると知るうちに 「本当に阿弥陀様はいるのだろうか。」 と不安になってしまいました。 浄土宗、浄土真宗以外の宗派で「念仏をすれば阿弥陀様に救われる」と説いてはいないのでもしかしたら阿弥陀様はいないんじゃないか、と思いました。 それでも阿弥陀如来様を信仰?している宗派もあるので阿弥陀様はいるとしても、じゃあなぜ「念仏すれば救われるので念仏しましょう」と説かないのだろう? 阿弥陀如来様はいるが、念仏しても救わないのだろうか?と思いました。 宗派によって教えが違うので 阿弥陀様は存在しているのかと不安です。 阿弥陀様を信じようと思っても、 「でももしいないのなら自分は地獄行きだ…」と不安になり信じれないのです。 後半わかりづらいのでまとめます。 1宗派によって教えが違うのはなぜでしょう? 2今度こそ阿弥陀様におまかせしていいでしょうか。必ず極楽浄土へ行き成仏できるでしょうか。 回答お願いいたします。
浄土真宗本願寺派の門徒です。父の墓を建てるのですが、知人から石の囲いをした方がいいと言われました。ですが、建てる予定の墓地は田舎なので、どこも石囲いをしていません。また、広さに規定があるため、石囲いをすると石碑が、小さくなり、かなり見劣りします。数十年後には、家の近くに移したいとも思っているので、あまり小さくしたくありません。石囲いは必要でしょうか?
現在、病名は診断されていないのですが心療内科に通い、薬を処方されています。 時々急に不安が襲ってきてどうしようもなくなることがあります。 そんな時、神様などを信じている人たちは祈る対象があっていいなと思ってしまいます。 私自身、浄土真宗の幼稚園に通ったりキリスト系の高校に進学していたりと宗教は割と身近にあり、神様や仏様はほんとにいるのかなあと考えることもあります。 でも一方で、宗教というと新興宗教の勧誘とか事件を起こしたりとか人間を悪い方向に持っていってしまうのではないかと心配になります。 個人的には神様や仏様など心の拠り所がほしいなと思っています。 ちなみに母方の家系は浄土真宗だと聞きました。 こういうことをお坊さんたちはどうお考えなのでしょうか。
昨年義母が他界しました 我が家は次男ですが、毎日の先祖供養だけでもと水とお花、お線香などをお供えさせていただいております 実家は浄土宗です その際に、お経も読みたいと思っているのですが、経を読む順番が分からずに困っています(浄土勤行集は入手致しました) 現在は、開経偈、般若心経、阿弥陀経、南無阿弥陀仏、懺悔文の順番で読ませていただいておりますが、我流です 実家が遠方なもので、中々伺う機会もご縁も遠い状況です 仏さまに失礼のないような御供養をしたいと思っております 御教示下さると幸いです
お仏壇の買い替えとご本尊の引っ越しについて教えて下さい 私の実家に据え置きの浄土真宗の仏壇があります。 仏壇は高さが150cmくらい、幅が65cmくらいです。 位牌は繰り出し式のお位牌で祖父母、父が入っており最近母が亡くなりまして 母もその繰り出し式のお位牌に入っています。 実家は母が無くなり空き家になったため仏壇(お位牌・ご本尊・脇侍)を 実家から私の自宅に移そうと考えています。 私の自宅は狭いので、仏壇は上置きのものを新規に購入して、 実家からお位牌・ご本尊・脇侍を自宅へ持ってくることを考えています。 実家のご本尊・脇侍(どちらも軸のタイプです)の大きさを確認したところ、 ご本尊で高さ34cmくらい、幅が14cmくらい。 脇侍が二つとも高さ27cmくらい、幅が13cmくらいのものでした。 このご本尊と脇侍を実家から私の自宅へもってきて新しい上置き仏壇に収めるとなるとご本尊と脇侍がおおきいため収まらないことがわかりました。 そこで、私の自宅で新規に仏壇、ご本尊、脇侍をあたらしく購入して 準備するという方法を考えました。 その場合ですが、 (1)実家にある仏壇の魂抜きですが、繰り出し式のお位牌のみの魂抜きになりますか? (2)ご本尊、脇侍についても魂抜きをおこなうことになりますか? どのような対応になりますでしょうか? なお、実家の仏壇は位牌を私の自宅に移したのち、時期を見て処分する予定です。 よろしくお願いします。
阿弥陀如来は本当にどなたでも救ってくださるのでしょうか。 最近歎異抄の現代語訳を読み感動しました。悪人でも阿弥陀如来によって救われるという優しい考えの救われました。親鸞の念仏をしなくても念仏しようという心が起こればそれで救われるとの考えにも驚きました。 そこで疑問なのですが、そもそも阿弥陀如来や念仏を知らない人はどうなるのでしょうか。親鸞は自力ではなく阿弥陀如来によって念仏を唱え救われると言っていますが、念仏に出会えなかった人はどうなるのでしょうか。
私は人間には業を作らなければならない宿業という物があると思ってます。 定められた宿命の様な業バージョンの自分で作った造語です。 ※宿業という言葉はもう既に存在してる事は知ってます。 その宿業を持った人間と他者を繋ぎ止める縁、即ち業縁もあると考えています。 世の中、良いご縁ばかりがある訳じゃありません。 悪いご縁も勿論あるのです。 ただし、宿業と業縁の相互が見事にマッチした時、間違いを選択してしまうか否かはその人自身によって変わります。 強い人は打ち勝って状況を良くしようと邁進するでしょうが弱い人はここで堕落してしまいます。 分かりやすく言うと犯罪者になるという事です。 ありとあらゆる可能性を分析してそのレベルが低い人は人間社会における負け組になる傾向にある訳です。 生まれた環境が悪く、能力もさほど高くなく、宿業と業縁がマッチしてしまう人は犯罪に手を伸ばしてしまう人が多いと思います。 自分はそんな人達が本当に可哀想だと思います。 はっきり言うと世の中救いようのない人間は誰一人居ないと思います。 浄土真宗の本願誇りだってそうです。 悪い事をしまくっても救ってくれるという解釈違いを生んでしまう、その状況が悪い訳でその人自身が悪い訳ではないと思います。 人生において色々重要視するポイントはありますが縁(人と人との繋がり)は最重視しても良い位だと思います。 ここで冒頭に戻りますが宿業といっても人それぞれ大小異なると考えてます。 虫を殺してしまう宿業を持って産まれてきた人だったり人を殺めてしまう宿業を持って産まれてくる人だったり人それぞれですが必ずしも業を作る訳ではないと言えるのもまた事実です。 本質に近い宿命すら何の課題を持って産まれて来たのすら分からないまま達成する事なく亡くなる人や知らず知らずのうちに達成して成仏する人も居ると思いますし。 犯罪を助長したい訳じゃないです。 悪い事はきちんと償うべき。 私のこの文を読んで業縁で繋がった人が解釈を間違えて非行に走る前に念押しでもう一度言います。 犯罪はするべきではないです。 千字ギリギリまでダラダラ文字打ちしましたが何を言いたいのかというと業にも縁があって人を殺めてしまう人とそうでない人の違いはその縁があるかないかだけだから平和に過ごせてる人は犯罪を犯してしまった人を慈悲の心で助けるべきだと思う私の考えは誤ってますでしょうか?
家の宗派に捉われず、自分個人の考えに合う仏教宗派を求めてグルグルと何周も思考の旅だったり実際にあちこちに足を運ぶ物理的な旅だったりを繰り返してきました。 基本的には僕は称名念仏の徒ですが、それだけで本当にいいのだろうかという疑いのような気持ちがあって、でも禅や密教などできる気もしなくて、それらのスピリットを念仏の中に包含した総合仏教みたいなオールインワン念仏を説く宗派はないかなと思っていました。その候補として浄土宗西山派、時宗、天台真盛宗など考えました。 ただ、ふと思ったのです。仏教宗派はよく登山道に例えられますが、それを一人で網羅する必要はないんじゃないか。オールインワン念仏でなくても、自分の道が称名念仏であるなら他の道を通る時の景色は絶対に見なきゃいけないということはないんじゃないか。 伝教大師が好きなのですが、例え天台宗に入っても法華や禅や密教を自分でやるとは思えず、やっぱり天台宗内の念仏行者にしかならないと思います。じゃあ浄土宗(鎮西義・知恩院)でいいんじゃないのか。 ただ、浄土宗は生きている間の生き方への教えが弱いかなと思うのです。 「現世を過ぐべきようは、念仏の申されん方によりて過ぐべし」ぐらいしか無いように思いますが、平安鎌倉の時代は良くても現代人にはこれだけでは生き方指南としては弱過ぎはしないか。 この点が浄土宗の弱点だとずっと思っていましたが、そこで好意を持っている伝教大師の教えを援用するということを思い付きました。そう、あの有名な「一隅を照らす」。 仏道修行としては浄土宗の念仏しかしませんが、人間としての生き方としては「一隅を照らす」を座右の銘とする。浄土・天台の併修と言えるほど本格的なものではありませんが、この両宗派を菩提宗とした僕の尊敬する徳川家康公のお心にも叶うかと思うのです。 僕が見つけたこの仏道、お坊様方から見てどうでしょうか? なにぶん素人の横好きからの考えですので、未徹在な点があればご指摘ください。
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?
生きるのがつらすぎて、仏教に入信したいと考えておりました。特に浄土宗が自分に合っているなと調べていくうちに思ったのですが、いくつか分からない点があります。帰敬式を受けることはわかったのですが…… ①お骨はどこへいくのでしょうか。実家の墓は曹洞宗のお寺にあります。帰敬式を受けたお寺に新しく墓を作るべきでしょうか。伴侶や両親と同じ墓に入ることはできないのでしょうか。 ②在家信者になった場合、必需品や日々のお勤めについて知りたいです。どこで手に入るかも知りたです。 ③経典を読みたいのですが、口語訳の載っているようなわかりやすい本などはあるでしょうか……? よろしくお願いします。合掌