浄土真宗と大乗非仏説
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。
自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。
事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。
浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか?
そしてどうやって信じているのでしょうか。
自分はこの事で信心をもらえそうにないです。
回答お願いいたします。
この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信じる、とは(※個人の体験と考えです)
こんにちは。「大乗非仏説」という言葉を聞いて驚いた、という気持ち、よく分かります。大乗仏教が成立した時、お釈迦様はすでに亡くなっていたから、「大乗仏教はお釈迦様が説いたものではない」と聞くと、自分が信じてきたことが崩れてしまうように感じるかもしれません。ですが、そうした疑問を持つことは自然なことであり、それ自体が信心を深める一歩です。
では、信じるということはどういうことなのか、考えてみましょう。単純に「誰々が言ったから信じる」ということもできますが、それ実は「鵜呑み」の信心とも言えるかもしれません。信じることはただ言葉を信じるだけではなく、「自分の経験や実感から得る」ものだと私は思います。
例えば、部活を例に考えてみましょう。最初は全然上手くいかなかったスポーツや練習でも、続けていくうちに少しずつ技ができるようになり、試合で成果を出すことができるようになると、「練習を続けることは大事だ」と実感として分かるようになります。これも一種の体験から得た信心です。仏教も同じように、私たちが実際に「南無阿弥陀仏」を称えてみて、心が軽くなる、あるいは心が平安になる、という体験を通じて「これは本当だな」と感じることができます。
歴史の中で、多くの仏教教義や実践が試され、繰り返し検証されてきました。時には消えていった仏教の流派もあったかもしれませんが、それは「歴史の波にもまれて消えた」ということです。つまり、長い時間をかけて残ったものが今私たちの前にあるというのは、それだけ信じる価値のあるものだという証でもあります。
私自身も、「南無阿弥陀仏を称えれば救われる」と信じることに対して疑問を持つことがありました。けれど、実際に「南無阿弥陀仏」を称え、心が落ち着くことを体験し、次第に「これで救われるんだ」と感じるようになりました。これは単に「仏教の教えだから」と信じたわけではなく、体験を通じて得た信心です。私たちは、試しながら生きているというのが本当のところです。
結局、「信じる」というのは、誰かが言ったから信じるのではなく、自分が実際に体験したから信じるものです。だからこそ、私たち一人ひとりが「自分のペースで」仏教を実践し、その結果として心が穏やかになったり、前向きになったりするのです。それが、私が信じている「体験からの信心」です。
ご質問ありがとうございます。
私個人としてはお釈迦様が後世のお坊さん達に「死後のことはお念仏をお称えするだけで誰でも極楽に往生するから気にするなよ。それよりも目の前の現実にちゃんと向きあって頑張って生きなさい。」と伝えたくて書かせたものだと思っております。
南無阿弥陀仏
もう一つの信心の方向 阿弥陀さまから頂く信心
ゆうさんは、浄土真宗にもご縁が深い方なのですね。さて、信心については、大きく2つの捉え方で説明されます。1つ目は、ゆうさんが阿弥陀さまを信じるというものです。その場合の信心の主人公は、ゆうさんです。ゆうさんは、信じている証として、金銭や様々な行為を積み重ねる必要がある。それによって、自分への有益な結果が恵まれる。信じる前提として、自分の経験・体験に基づいた理解・納得が出来るという点も大きな要素です。多くの宗教が、そのような方向性で信心を捉えています。
2つ目は、阿弥陀仏から私へという捉え方です。信心の主人公は、阿弥陀さまです。浄土真宗はこちらの立場に立っています。ですから、「阿弥陀さまから賜る信心」とも、お話しすることがあります。
浄土真宗において、信心における方向性が正反対なのはなぜでしょうか?それは、阿弥陀さまが、ゆうさんを初めとする私たち人間の姿を見抜いておられるからです。1つには、ゆうさんが正直にお話しのように、人間は周囲の状況・情報などに常に左右されるため、考え方や行動に一貫性が保てないこと。信じている証として金銭や様々な行為を積み重ねることは素晴らしいですが、そのことで他人と比較し、優劣の分別を離れられないこと。さらに、世俗を含めた自分中心の考え方や行動に縛られてしまうこと。
そのように人間の行為・資質を信心の根拠としている限りは、すべての者がもれなく悟りを開くことは出来ません。そうであるなら、悟りを開くことの出来る原因と条件を阿弥陀仏の側で全て整えようと思い至られたのでした。それは、例えるなら「コペルニクス的転回」と言えるでしょう。「ゆうさんが願う前から、阿弥陀さまに願われていた」のです。そして、その証として、思わず称えた念仏が「願行具足のお念仏」と聞こえた時、ゆうさんの信心は決定します。さらに、その上での人生は、「悲喜交々の毎日は独りではなく、阿弥陀さまの智慧に導かれ、慈悲に抱かれる日々」へと転じられていくのです。阿弥陀さまの教えに出会うためには、これまでの悲しみも苦しみも無駄ではなかったと、自分の人生を全て引き受けられるように育てられていきます。そして、いのち尽きた時には、必ず西方極楽浄土へ行き生まれることが出来て成仏が叶うのです。
充分言葉に出来ていませんので、他のお坊さまのお答えも参考にしてください。これからも、ハスノハ一同応援しています。
機の深心、共感、みなす、それでも無理なら
信心につながる思考回路はいくつかあります。
一つは、機の深心(自分は煩悩具足の凡夫であり救われ難いから、阿弥陀仏の本願がなければ地獄行きである)です。
また、煩悩具足の凡夫だからこそ疑いが生じてしまうと、疑っている自分をそのまま受け入れる考えも可能です。
次に、「みんなもれなく救われたら好いのにな」という浄土三部経の大慈悲への共感です。
次に、浄土や阿弥陀仏は実在しないかもしれないが、実在するものとみなして生きるということ。つまりは一応念仏しておくかという生活です。
例えば、脳死が人の死かどうかは議論がありますが、日本では、臓器移植する場合は脳死を人の死とみなします。
死んでみなけりゃわからないなら死ぬまでは浄土があるとみなして生きるという道もあります。
以上ですが、無理に信じる必要はありません。
現在の日本ではテーラワーダ仏教を学ぶ方法もあります。
弘法大師も法然上人も、海外からの仏教の情報を取り入れて日本仏教を更新したのであり、もしかしたら、浄土の教えにこだわるよりも、(日本仏教にとっての)最新の情報(海外からの新たな仏教)に耳を傾け続けることも、日本仏教の祖師達の意向に沿う道なのかもしれませんね、
事実なのか真実なのか?
ゆうさん、ご質問ありがとうございました。
信じることの根本ともいうべきお経がお釈迦様が解かれたものではないというのは、とても衝撃的なことだと思います。偽経・非仏説ということに悩む人も多いのでしょう。このために信じられないとすることも、わかります。
真宗では、お釈迦様がこの世にお出ましになったのは阿弥陀様の教えを伝えるためであるといいます。阿弥陀様の教えが、真実信心であるといいます。
偽経・非仏説が事実であったとしても、伝えられた教えが自分にとって真実と感じられたなら、信じるべき教えなのではないでしょうか。
質問者からのお礼
佐藤良文様
自分は情報だけで信心を得ていました。
今度からは、一生懸命に念仏を唱え信心を得ようと頑張ります。
ありがとうございました。
願誉浄史様
もう自分には、死んでみなければ分からないから浄土三部経に賭けるという道しかないのかも知れません。
よくよく考えます。
ありがとうございました。
藤堂尚夫様
やはり事実と感じたなら信じるべきなのでしょうか。
ありがとうございました。
げんさん様
今の自分にはあまり理解出来ませんでしたが、よくよく文章を読み返して参考にさせて貰おうと思います。
ありがとうございました。
聖章様
自分もそう思いたいです。
ありがとうございました。