出来れば浄土真宗の方に回答をお願いしたいです。 ハスノハでは「シャーペン」というニックネームを使っていますが、プライベートでは誕生日の星座から取ったニックネームなどを使っています。 仮に山羊座だとして話を進めます。 「yagi++」「yagi_pp」「やぎ」「ヤギ」などを使っています。 このニックネームを付けたのは、浄土真宗の「迷信や俗信に惑わされない」という教えを知る前だと思います。 山羊座生まれだから「yagi++(など)」と命名したというだけでは、占いに惑わされたとは言えない気がするのですが、引っ掛かります。教えを知ってからは、星占いは見ないように、易者に占ってもらわないように心がけています。 ニックネーム、SNSのアカウント名、ホームページのURLなどを全て変更するのは大変ですし、第一、気に入っているので変えたくないのです。 気にし過ぎだと思いますが、このニックネームは変えるべきでしょうか? よろしくお願いします。
「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。 凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。 ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。 できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。
思う所あって浄土真宗から浄土宗に改宗した者です。金戒光明寺での授戒会が今月末に迫ってきましたが、冥加金6万円+交通費と宿泊費で約2万円という高額なので未だに参加すべきかどうか迷っています。頂けるのは二字の戒名で道号は無しということですが、それなら以前に西本願寺で頂いた法名があります。 西本願寺の浄土真宗には戒はありませんが、戒ならこの夏に高野山大師教会で(参拝客向けの簡易的なものとはいえ)授かりました。たぶん真言宗も浄土宗も戒は同じ大乗戒じゃないでしょうか。 西本願寺で授かった法名と高野山で授かった戒を足せば、金戒光明寺で受けられるものと一緒じゃないかなあなんて考えています。なにより浄土宗の教義からいうと持戒は必須でもないことですし。 いかがでしょうか?
お世話になります。 我が家は浄土真宗大谷派です。 義父の病気を機に同居を始めて、毎朝、お仏壇にお参りをさせていただいています。 義父と主人は一本のお線香を3つに折り、火をつけて寝かせ置くと言われました。 言われた通りにして来ましたが、葬儀屋さんのサイトで浄土真宗は2つに折り寝かせ置くと書いてあります。 サイトによってはお線香のやり方を間違えると不幸が続くとまで書いてあります。 浄土真宗の正しいお線香の置き方を教えてください。 よろしくお願いします。
浄土真宗の寺院の住職の子どもは、やはり跡取りとして育てなければいけないのでしょうか。 私は浄土真宗の寺院の長男であり、現在は一般企業に勤めておりますが、ゆくゆくは継ぐつもりでおりました。 しかし、「寺で生まれたから」という理由で小さい頃から跡取りとして育てていくことに疑問があり、子どもの人生を方向づけてしまう育て方はしたくないと考えております。 その旨を父である現住職に伝えたところ、「そのような考えであるならば絶対に継がせられない」とのことでした。 真宗に限らず、現在まで多くの寺院が残っていることは、安定した世代交代が可能である世襲がその一要因であろうとは思いますが、現住職がそこまで反対する理由を図りかねています。 私の代で廃寺するつもりは毛頭なく、今までの経験を活かして、地域に開かれたお寺にしたいと考えていました。考えが甘いかもしれませんが、万一子どもが継ぎたいと言わない限りは外部の人に継いでいただくつもりです。 とりとめのない文章で恐縮ですが、皆様の御意見を頂戴したいです。
いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。 前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。 なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。 お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。 これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。 しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。 確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。 しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。 だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか? それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか? 浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。
ネット掲示板では浄土系宗派を「自殺宗」などと揶揄する輩もいます。 僕も浄土教の教えを、まったく仏教を知らない友人に話したら、「じゃあ早く死んだらいいってことになるじゃん」と言われ、有効な反論ができませんでした。 浄土教徒は生きている間に何を大切にして何を楽しみにして生きたらいいのでしょうか? 往生(=死)を待つだけが浄土教の肝ではないよ、生きている間にこんな良いことがあるんだよ、念仏以外に生きている間にこんな事をすべきだよ、だから早く死ねばいいというわけじゃないんだよという答えがありましたら教えてください。
浄土宗、浄土真宗の教義について質問させてください。ある本を読んでいたら浄土宗や浄土真宗の教義に良い事も悪い事も何もするなという教義があると書いてました。その本は宗教本ではないですが。本当にそういう教えがあるのでしょうか?あるとしたらなぜ良い事もしてはいけないのですか?お答えお願いいたします。批判、非難しているのではありません。
浄土真宗での水子供養の必要はないと、ネットで見ました。 中絶という事をしてしまいました。 自身の家が浄土真宗、大谷派です。法事等でお世話になっておりますお寺さんがいますが、聞く事は出来ません。 本当に、浄土真宗では水子供養の必要はないのでしょうか? また、他の宗派での水子供養をしてもいいのでしょうか? どうぞよろしくお願いいたします。 仏壇や、お墓に手を合わせる時は、必ずその子を思い南無阿弥陀仏と唱えております。
先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?
私の父方の宗派が浄土真宗です。私は浄土真宗の教えをよく、「これは心改めた死刑囚に対して最も有効な教えかもしれない」と思うことがあります。他の宗派では、仏性には思考・言葉・行動の全てが揃っていなくてはならないなら、せいぜい世界の幸福を祈るという「思考」しかできない檻の中の死刑囚に救いは無い…というような見捨てにも解釈できる説法をされたことがあります。私は身内に死刑囚が居るわけじゃないのですが、「心改めた檻の中の死刑囚でも罪を償う方法があるかどうか?」が、それが本物の宗教かどうかをジャッジできると本能的に予想したのだと思います。 さて、阿弥陀様はよく他の宗派では悪者扱いされています。「あのお方はあの世の管轄者だからこの世のことは救ってくれない、功徳も利益もない、阿弥陀様にすがることはただの来世に託した人生の諦めでしかない」などと言われます。 阿弥陀様は、この世でも大衆を救ってくださる方なのでしょうか? 無量寿経などの聖典にはなんと書いてあるのでしょう? 回答よろしくお願い申し上げます
初めまして 私は今福祉施設で働いているのですが、以前から仏様について学び深めそれを生きていく中で私も周りにも生かしていきたいと思っています。 働きながら学校へ行こうと考えましたが、浄土真宗大谷派はその中になく、何か教えていただける方がいらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。
いつも私の独特な質問にお答えいただきありがとうございます。 大晦日の夜に仏様、ご先祖様に1年間のお礼と謝罪のために自分の部屋で(仏壇はありません)手を合わせようと思っていますが、不安なことがあります。 浄土真宗のサイトで「数珠を持たずに合掌をすることは仏様を手づかみにする失礼なこと」と書かれたものを読みました。 部屋で手を合わせる時にも毎回数珠が必要でしょうか? 私は独身で、実家(父方)は曹洞宗ですが母方の亡くなった祖父母は浄土真宗です。数珠の持ち方や念仏も違いますが、別々に手を合わせた方がいいでしょうか? 考えてみると、ご先祖様には曹洞宗や浄土真宗じゃないご先祖様もいらっしゃる・・・と思うと、どの宗派で数珠を持ち、どの念仏を唱えるのがいいのか、頭の中がごちゃごちゃになってしまいました。 また、仏様とご先祖様と亡くなった祖父母と、一度に手を合わせても失礼にはあたらないでしょうか? 不安な点が多くあり、たくさん質問してすみません。よろしくお願い致します。
お世話になります。 当方、浄土真宗になります。 先日、母が亡くなり、七日七日の中陰をしております。 それで一つお聞きしたのですが、今度、その中陰と数年前に亡くなった家族の命日が近いのですが、一緒に供養のお経をお願いする事は可能なのでしょうか? 回忌法要の年ではないので、中陰のみをして頂く方が良いのでしょうか? 宜しくお願い致します。
うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。 浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。 浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
浄土真宗の考え方で好きなものに 倶会一処というものがあります。 若くして父が亡くなって悲しむ母に、父とはお浄土でまた会えるよと伝えてあげたいのですが 浄土では仏になる、(煩悩をなくす)修行?をしているのだと聞きました。 そこで質問なのですが浄土にいったものに、 好きだった人という感情は、 父は母、母は父に会えたという感情は存在するのでしょうか? そんなドラマみたいな話、と思われるかもしれませんが頭で思い描いえがいてるような またあえたね!というような再会ができるのかが とても気になっています。 お答え下さると嬉しいです。 よろしくお願いします