浄土はこの世かあの世か
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか?
概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。
鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。
また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どうしても対象的に考えたくなりますが・・・
阿弥陀仏の極楽浄土について、親鸞聖人は「無量光明土」であると記しています。
量ることの出来ない光の仏土が浄土です。
その光は何を照らすかと言えば、経文には「諸仏」と説かれます。
ですから私を真実に導く諸々の仏様方を見出させるはたらきをするのが浄土の光です。
経典に説かれる物語上の表現では死後に生まれ往く世界として読み取れますが、そのような表現をされる浄土を親鸞聖人は「化土」とされます。「化土」は真実の浄土である「報土」と別にあるのものではなく、真実とは接点を持てない私たちのために真実へと導く方便の役割をはたすのが「化土」です。
これは死後に生まれるという物語を通して今この世で真実の心の境地に目覚めなさいということではありません。
私たちはどこまでも真実に至らないからこそ、浄土から南無阿弥陀仏という言葉となって私たちに真実を届けるのが阿弥陀仏の願いです。
つまり、浄土とはこの世とかあの世という問題ではなく、私を真実に目覚めさせようとする「教え」「はたらき」であると言えると思います。
こう言うと、なんだフィクションかとガッカリするかもしれませんが、では浄土の教えなくして自らの力で真実に至れるのならそうしてみなさいという話になります。
浄土という真実の教えによってこそ、真実ならざる私を知らされ続けることができる。それが厳しくも有り難い、地に足ついた仏道ではないでしょうか。
そもそも、
極楽浄土はお経の中に在る。
といってしまっては身も蓋もないので、、、
でも、極楽浄土というのは仏のいる世界という設定ですよね。
迷える凡夫がいつ成仏するのでしょう。
人はよく〇〇宗ではという区別しますが、宗門の中にもいろいろな人がいます。
宗派の教科書の中の極楽浄土論を求めているなら、大学の論文集や各派の教学研究所に解を求める方がいいような気もします。
個人的な感想でよければ、、
無量寿経には「無三悪趣の願」という箇所があり「地獄餓鬼畜生があるうちは悟りを開いたとは言えない」と説かれていますね。
この世で極楽パラダイスを感じるのは難しい気がしています。。
+++
お返事ありがとうございます。
伝統教学と近代教学。あるいは石泉と空華なと、ひとつの教団の中にもいろいろな考え方がありますことは留意くださいませ。
あと、何を信じるかという点においては仏の世界を信じる視点と仏の働きを信じる視点があります。
海賊王になる手前のルフィという人物が実在するかはわからんけど、ルフィの言葉や振る舞いに心動かされた人は少なくない。
阿弥陀如来になる前の法蔵菩薩が実在する証拠を私は知りませんが、阿弥陀如来の教えやはたらきに救われた人が現世でいることは否定できないと思っています。
なんまんだぶつ。
お身体お大事にしてくださいませ。
一浄土宗僧侶として回答させて頂きます
拝読させて頂きました。
詳細な教学や宗学的な解釈は大正大学や佛教大学の先生にお聞きなさって頂きたいとは思いますが、私は一浄土宗僧侶として回答させて頂きます。
浄土三部経に書かれております通り極楽浄土ははるかかなたの浄土です。生きているうちにはその地にもその境地にもたどり着くことはできません。まして私達のような浅はかな愚かなものは到達することはできません。
阿弥陀様に心からどうかお救い下さい、極楽浄土へとお導きなさって下さいと心から願い「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と一声でもおとなえなされば、死の間際である臨終の時に阿弥陀様が目の前にいらしてお導きなさって下さいます。先に往かれた親しい方々やご先祖様がお迎えなさって下さいます。
そして阿弥陀様のはるかかなた西方極楽浄土へ往生させてくださいます。至心合掌 南無阿弥陀仏
この世の中は穢土です、私達の貪り・怒り・愚かさ・煩悩によって汚れけがれた場所です、そして阿弥陀様の浄土は一切のけがれなき浄土です。
「厭離穢土 欣求浄土」が浄土宗鎮西・白幡派の教えと受け取らせて頂いております。
私の自坊は一向寺ですから旧一向派つまり時宗寺院ですが、一向派について教えの詳細にはわかりません。良忠上人の弟子として一向上人は鎮西・白幡派から別れているのですが、昭和初期に一向派は鎮西・白幡派つまり浄土宗に吸収されました。
かつては自坊でも踊念仏を勤めていたでしょうが、私はその教えを修行でも受け取っておりませんので、お答えはできません、申し訳ございません。
お返事ありがとうございます。おそらく私宛だろうと思いました、ですので私個人一僧侶として回答させて頂きました。
この世界は美しく素晴らしいところもあります、私は沢山の素晴らしい大自然も見ましたし、素晴らしい方々の姿も見ました。
その素晴らしい世界ですが、私達の我欲・煩悩がある限り私達の罪もけがれも迷いも苦しみも消えないです。この世で覚りの境地に入る方もおられるでしょうけれど、少なくとも私にはできないでしょう、ですからこの世の浄土にたどり着くことはできないと思います。ただ、仏教の教え・お念仏に出会うことができました、浄土への道です。
一向派については大正大学の大橋先生が「踊念仏」ちくま文庫で今年12月に発刊されました。一向派について書かれています。参考になるかもしれません。いかがでしょうか?
疑いながらも念仏すれば往生する
「疑いながらも念仏すれば往生する。」
これは、兼好法師「徒然草」で法然上人の言葉として紹介されている内容です。
例えば「将来年金がもらえるのかどうか」と疑いながらでも年金を納めていれば、支給されるべき年齢になれば年金は支払われます。
実際に年金というものが存在するからです。
西方極楽浄土もそれと同じで実在し、阿弥陀仏は現在も極楽浄土にいらっしゃる。
だから疑いながらも念仏すれば往生できる。
一方で「徒然草」ては、法然上人は
「往生は決定と思えば決定、不定と思えば不定」
ともおっしゃられたそうです。
厚生労働省がいくら「あなたも年金をもらえますよ」と説明しても、「もらえるわけない」と思っている人にとってはもらえないのと同じ(安心できない)のです。
安全(疑いながらも念仏すれば往生できる、だならあなたも大丈夫だよ)は他人視点で、安心(往生できるから私は幸せだ)は自分視点かもしれませんが、両方が重要ですね。
追記
往生決定の後は、この世で念仏やその他の善行で功徳を積んで極楽浄土での成仏が早まるように準備できます。
また、何事にもAでもAじゃなくても念仏すれば往生できるとポジティブになれます。
功徳(成功)は貯まるが罪(失敗)は帳消しにかるのが念仏者の人生です。
質問者からのお礼
>吉武文法さま
回答ありがとうございます。
僕は最初は家の宗派である浄土真宗を学び、そこから仏教を学んだので、なんだか真宗の味わい方には懐かしさを覚えます。
そうすると、浄土宗でいうところの極楽浄土は真宗では化土ということになっちゃうんですかね? 真宗では報土とは色も形もない悟りそのもののことですもんね。
>泰庵 一法さま
回答ありがとうございます。なるほど、経典の文章を素直に受け取ればそうなりますね。
真宗(特に大谷派?)では生きているうちの往生を説く傾向が強いように思いますが、泰庵さまの素直な読み方の方が僕にもしっくりきます。
>Kousyo Kuuyo Azumaさま
回答ありがとうございます。文中にわざと一向派と書いたのはKousyoさまからの意見を特に聞きたいと思ったからでした。
いただいたお答えは僕の予想とは違っていて、まんま鎮西義であり現世往生をキッパリと否定なさっていますね。
僕は現世往生という教えには惹かれつつも、極楽往生しててこのしょぼい生活なんて嫌だなあ、だったらまだ往生してないと言われる方がこれからに希望持てて良いなあとか、思考が行ったり来たりしています。
ただ、僕も現代人なので、そんな最初からこの世をあきらめて過ごすのが良い教えなのか?と考えるとちょっと浄土宗にも疑問が湧いてきてしまうのです。この悩みへの答えは無いでしょうか?
> 願誉浄史さま
回答ありがとうございます。
僕は自分の死後の当得往生はまったく疑っていないのです。
ただ、この世を最初からあきらめたようなネガティブな教えが良い教えだろうかという疑問に取り憑かれてしまい、現世往生というのはそれへの一つの解としてあり得るのですが、浄土が現世か来世かの白か黒かではなくその中間に安心決定(真宗用語か?)という境地があることに気付きました。
ただ、安心決定はしても結局は死を待つだけでこの世を穢土としてあきらめてるネガティブさには変わりないな…と思うとやはり最初の悩みからは完全に抜け出せていない。
阿弥陀仏への信心を得た者が死ぬまでのこの世をポジティブに生きる心構えがあれば教えてください。
>願誉浄史さま
お言葉、ピンときました。
僕はどっちかというと一念義寄りの思想なので、往生はもう決定しているとして後は何をしたらいいのかと、つまり退屈になってしまっていたからあれこれ考えてしまったのかもしれません。
極楽浄土での成仏が早まるために念仏をする(九品往生のことでしょうか?)のだと思えばこれから死ぬまでの念仏にも張り合いが出ます。
ありがとうございます。
> 泰庵 一法さま
石泉と空華というのを知らなかったのでwikiでさっと調べました。本山の見解とちょっとでも違うと異安心になっちゃう全体主義を感じさせる本願寺派にこういう派閥というものができる余地があったのかと驚くとともに、石泉学派の思想が僕の求めているものに近いことを感じました。
> Kousyo Kuuyo Azumaさま
>この世界は美しく素晴らしいところもあります、私は沢山の素晴らしい大自然も見ましたし、素晴らしい方々の姿も見ました。
まさにそこなんです! この世界の美しさ・楽しさを見るにつけ、ここが穢土だとぉ!?という気になってしまうんです。そういう感覚になったきっかけは日蓮上人の浄土宗批判(遥か遠い極楽浄土の阿弥陀仏よりこの娑婆世界の釈迦如来に帰依せよ)を読んでからかもしれません。もっとも日蓮上人も佐渡以降は現世の浄土より霊山浄土という別世界にシフトチェンジしたような節があるので、現世を浄土にという路線には行き詰まりがあるのかもしれませんが。
教えていただいた本、さっそく買います!
正月早々風邪をひきました。人間は体温が2℃上がるだけで簡単に地獄に行けてしまうという事を思い知りました。やはりこの世に生きながら浄土往生というのは無理ですね。
快川和尚のように「心頭滅却すれば悪寒もなお温し」と言える人ならできるかもしれませんが、私のような者には無理ですね。