お世話になります。
今すぐに死にたい、ということではないのですが、
私は、かねてから「自殺してはいけない理由」が分かりません。
遺族や他人に迷惑をかけるから、というのは理解できます。
しかし、生きているほうが周りに迷惑をかけてしまう者もあると思うのです。
私は同性愛者で、家族や伴侶はおらず、
将来、いわゆる無縁死や孤独死を迎えるのは、
ほぼ間違いないと考えています。
交通事故に遭うなどすれば別ですが、
そうそう都合よく、ぽっくりとは死ねないでしょうから、
体力が衰え、あるいは何かしら病を患うようになった頃からは、
例えば地域の民生委員や、市の高齢福祉課などに、
多少なりとお世話になってしまうでしょう。
そのような方々の手を煩わせ、
また、一般の方々が収めた税金を費やすべき価値が、
私の死にあろうはずが無いのです。
さらに、私は低所得者で、蓄えもございません。
つまり、死を迎える年齢の頃には、
金は無いわ身寄りは無いわ、
ただただ扱いづらいだけの年寄りになるのは、目に見えています。
これで認知症を患おうものなら、さらに厄介な存在となるでしょう。
だから、まだ体や頭が動くうちに、
無価値な自分自身に、落とし前をつけたいと考えてきました。
こちらの相談サイトで、
自殺を肯定するアドバイスなど頂けないのだろうと思います。
では、こんなクズでも生きていかねばならない理由を、
私に教えて頂けますでしょうか。
宜しくお願いします。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人知れずに自殺できたとしても、いずれ誰かが遺体の後始末をするでしょう。全くその心配がない場所で死のうと考えていても、いざ死ぬ気になったらそのようなことは消し去ってしまうのも、実際の自死事件を見れば明らかです。
『まだ体や頭が動くうちに落とし前をつけたい』という自分勝手な考えも、本気で死のうと考えていない今だから言えるのだろうと思います。
死に方に優劣はありません。どのような亡くなり方でもただ悲しいだけです。しかし、老衰であろうと、事故であろうと、病気であろうと、自死・自殺であろうと、成仏するのは同じです。死ぬことは悲しいことですが、誰にもいずれ来る現実です。死ぬのは悪いことではないのです。事故死がダメだとも病死がダメだとも言えないのと同じで、自死・自殺もダメだとは言えません。
自死・自殺してはいけないと言われるのは、それが当人の意思による、いのちを粗末にした悪行だと見られているからです。しかし本当はそうではありません。ほとんどがウツによる病死だと言えます。ウツに侵され機能不全になった脳が誤った判断をしたのが自死・自殺です。正常な状態の本人がいのちを粗末にしたわけではないのです。
もちろん誰にも自死・自殺なんてしてほしくありませんが、その人が無意識にしてしまうのが自死・自殺なのだと思います。
自殺がいけない理由の説明。
まず、息を止めて、何分持つか、123…
息苦しいでしょう。誰が息をしてるんでしょうか?
アナタ?
だったら、自分の意思で道具も何も使わず即座に息や心臓も止めてみてください。
あなたの意思とは無関係に、息を吸ったり吐いたりしてるのは、本当にあなたですか?
あなたなら何故自分の意思で、息一つも止められないのですか。
つまり、こんなクズ、と言っているのはあなたの頭のハタラキで、あなたの本当の主人公は命だということ。
「こんなクズ」とまで自分を自ら虐げるような可哀想な心境に陥っているのは、あなたの本当の主人公であるオイノチ様に逆らって本心が嫌がることばかり無理してやってきたからです。自分の中に本当に聖なるもの、命を見出してみてください。
自殺がイケないということを仏教は言ってるんじゃない。
「自分の意思とは無関係に動いてくれている、せっかく授かったその聖なる命。
自分の意思とは無関係に動いているからこそ聖としか言いようのないその尊い命を自分の身勝手で勝手に左右しようとしてはいけない、そのいのちに対するバチアタリな我見とい自分中心なものの考え方こそイケないと言ってるだけです。
だから、あなたが自分の命を断つようなことや、クズなどと自分を卑下すれば命も名も泣く。
本当に自分を大事にすることです。本当に自分を大事にするという事は、考え方や行い方、しゃべる事、このような場所で書き込む言葉もやさしくするべきです。
自分が生み出す行いも、言葉も大事に丁寧にしてみてください。
丁寧とは、自分が「イタくない」ソフトなレベルをいいます。
世間や人が冷たいなら、自分だけは、自分に優しくしてもいいんじゃないでしょうか。
聖太さま、なごみ庵の浦上哲也と申します。
ご質問を拝見していて、なんとご自身を厳しく見つめ、また控えめな方なのだろうと感じました。そして、今は家族がいる私自身も、実は同じ不安を持っていることに気づかされました。
仰る通り、命は計り知れません。どう年老いていくのか、どう亡くなっていくのか、自分では決められません。また、大勢の家族がいて資産があっても、無縁死や孤独死をすることもあるでしょう。
お釈迦さまの「独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)」という言葉があります。文字通りですが、人間という存在は生まれるのも死にゆくのも孤独である、という意味です。その孤独な人間たちが、縁によって相互に関係しあい、社会が成り立っているのだと思います。
お答えにはならないかもしれませんが、生まれた以上、生きていくしかないのではないでしょうか。誰もが、不安で、苦悩に満ち、人に迷惑をかけ又かけられて生きています。その苦悩に向き合うのが、人生のひつとの意味と言えるのではないでしょうか。
聖太様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「自殺 仏教」とグーグルで検索いたしますと現時点(2013.12.23)で上位四番目に出て参ります「仏教は自殺を本当に禁じているのか?」というページがございます。
いずれ、このページを「hasunoha」でも参照として出さなければならない日が来るかもしれないと覚悟しておりましたが・・
いよいよその時が来てしまったかという心境でございます・・
「仏教は自殺を本当に禁じているのか?」
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html
もちろん、ここでも自殺を肯定的に扱っているわけではなく、自殺を勧めているわけでもありませんので、この点はあしからずご了承を賜りたくに存じております。くれぐれもどうかお間違えのないように宜しくお願い申し上げます。
特に出典としては、初期仏教の経典に分類される阿含経に依拠しての考察となっておりますが、釈尊の自殺に対する態度を知る上で参考になるものがあるかと存じております。
さて、本考察を踏まえた上における、拙生の見解についてでございますが・・
「究極的な場合によっては、自殺も許されることがあるかもしれないが、心が煩悩や無明(根本的無知)に支配された状態においての自殺だけは決して勧めないということ」でございます。
現代社会における自殺のほとんどは、煩悩や無明によってが原因となってしまっているものと存じますが、煩悩や無明によらない自殺というものがあり得るとして、では、それはいったいどのようなものとしてか、ということを考えてみることが必要となります。
聖太様、どうでしょうか?
これから共に仏教を学ぶことで、拙生と一緒に考えてみませんか?
煩悩や無明によらない自殺とはどのようなものであるのか?
え、ほんとに、まさか・・仏教で自殺が否定されないかもしれない・・
どうでしょうか?
興味が出てきませんか?
もちろん、では、煩悩、無明とは何かということから理解することが必要になるかもしれませんが、是非、学びを進められていく中で、調べてどうしても分からないことが出て参りましたら、どうぞ遠慮なく「hasunoha」にて質問を気軽にして下さいませ。御待ちしております。
川口英俊 合掌
ご回答頂きました僧侶の皆様、有難うございます。
各ご回答を頂きました後、ここにコメントを記載させて頂きますまでに、
相当なお時間を頂戴いたしましたことを、まずお詫び申し上げます。
頂きました各ご回答を、慎重に拝読し、私なりに自己問答を重ねました。
しかし私には、自分の命が、仏や神など、
自分より上位の存在から授けられているという考え方を、飲み込むことができませんでした。
現実主義者としての、容赦無い刃を、自分に突きつけた結果を寂しく抱きつつも、今しばらくは、
これほど無様であっても、私のほかに代わりがいない具体的な役割を、
一つずつ果たしていきたいと思います。
この度、ご回答をお寄せ頂きました僧侶の皆様におかれましては、
私のごとき頑迷な、卑しき者に、お時間と意識を割いて下さったこと、
それ自体が有り難く、嬉しかった旨を、この場をお借りしてお伝え申し上げたく存じます。
有難うございました。