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自殺

回答数回答 6
有り難し有り難し 489

死にたい。

自分のことが嫌い、許せない。

だから自分を殺したい。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何ものにも影響されない本当の独りになれる心に坐する

人間は関わる相手が多くなると苦しくなるものです。
ぶっちゃけ、ここでのかかわりが多すぎたのではないでしょうか。
質問回数も多いですから、いったん深呼吸して、このハスノハサイトとも適切な距離感を持ってください。
持つべき自分、持つべき顔は一つの方がいいと思います。
関わるべき人は、他人様ではなく、本当は自分自身です。
自分のルールは捨てた方がいいと思います。
失礼ながら、ここでの名前も過去も全部捨てた方がいいと思います。
完全にリフレッシュして再スタートするのです。
毎回2文字でタイトルをつけたり、自分のあり方を自分で決めているから自分に縛られてしまうのです。
もっと、キャラを作らずに「普通に」生きることを始められてはいかがでしょうか。
【あらかじめの自分をもってはいけない】のです。
一度、本当に今までの自分を捨て去ってしまうことです。
ここでの名前を捨て、今日は今日で「今の自分の実際」を生きればよいのです。
蓮の花とは過去の泥の色に染まらないありかたです。
私どもはハスノハであり、あなたは蓮の花です。
いつでも新しく咲いているのです。
ならばこそ、ここでの自分の名前にもうこだわるのをやめて、人に頼るのではなく「自分のキャラをやり続ける」ことも捨てて、新たに名前を変えて再スタートしてみてください。
私はここで3000以上の回答をしていますが、いつでも全消去されてもかまいません。
毎回、新しく呼吸をしてるからです。
ネタも言うべきことも脳みそ一つあればそれで十分です。
このサイトで生きているのではなく現実で生きているのですから。
ここでの「ま。」というキャラを捨ててしまうことで結果的にあなたは精神的に生まれ変われます。それを取っておこうとすると、執着になると思います。
「ま。」というあり方で自分を位置づけるのではなく、実物の自分に頭のフィルターなしに出会うことです。
人間は毎瞬間、毎秒細胞レベルで生まれ変わっているからです。
自分の体が事実生まれ変わっているのに、考えの上で前の状態を引きずっているのはおかしい生き方なのです。今自分がやっていることが、今の自分の苦しみに関連しているのですから、尚更それを改めて苦しまないやり方を見つけるのべきです。その為にも、一度「ま。」さんという名前を捨てて、キャラなしの自分、枠なし、位置づけなしの自分で再デビューすることをお勧めします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自死が多い時間帯というものがあるそうです。働いている人なら夜0時ごろと早朝5時6時ごろ。自分の考えって、私たちが思っているほど自分の考えじゃないんです。環境に考えさせられている感じ。

そう、この考えは自分の考えじゃない。そう知った時、自分は生きながらに死んでいるんです。善い意味で。

さぁ、寝ましょ。私ももう寝ます。寝れる気が微塵もしないけど頑張って寝ます。今寝るという行いが、明日の私を作るから。1時間近くかけて200字も書けなかった私なんか大っっっ嫌いだけど、そんな自分の考えとのケンカを頑張らず、寝るということを頑張ります。おやすみなさい。合掌

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

許すも許さないもない

自分を許せない、その価値観は自分が創ってるもの。今のま。さんは目の前の自分自身の姿を嘆いているだけ。自分が悪いと思うところだけが目について、自分の素晴らしさをすべて見失ってる。全てに優れてる人などいない、また全てが劣っている人もいない。そして優れているも劣っているも他人との比較で何の意味も無い、仏さまの目から見たらその違いはほとんど意味は無い。前にハスノハのある方が言っていた。ウサギとカメの競争でなぜカメは勝ったのかと、それはカメはウサギを気にせずただ自分自身を見詰めて自分のペースで歩んだからだと。自分の生き方は他人には代わってもらえない。他人の意見に振り回わされても他人がま。さんの人生を代わってはくれない。だから自分の生き方に自分が許すも許さないもない。間違ったら思ったならそこで軌道修正すればいい、間違いかわからなければ立ち止まって自分なりに答えが出るまで考えればいい。自分が自分を許すも許さないもない。阿弥陀如来様からすれば人生の正解も間違いもない。どちらも同じようなものだ。そして間違えた人も必ず救ってくださるという。自分自身の人生を勘違いで許せないと思い込み、自死などして欲しくない。死んだらハスノハのお坊さんみんなが悲しむ。1年後勘違いで死なないでよかったと思える日が来るのだから。一緒に生きていこう。

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有り難し
おきもち

長くサラリーマンをしていて、16年前先代の跡を継ぎました。住職となって改めて仏教の勉強不足を実感しています、未熟者です。 hasunohaは私にとって修行の場です。

世の中には嫌われない人は一人もいないです。
その中で嫌いな人を殺せば何が残るのでしょうか?
誰一人残らないのではないでしょうか。
嫌いな人を殺すのではなく、良いとこを見つけたり、悪いとこを正したり、適度に距離を置いたり、過去の過ちを許してあげたりして上手く付き合っていくことが大切ではないでしょうか。
それが自分自身であってもです。
何か失敗したなら、反省して対策を講じて、次はもう少し上手くやろうとする。
そうすることで少しずつ嫌いな自分を好きな自分に変えていってくれたら嬉しいです。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

死に切る

私たち僧侶の中では、生きながらにジブンというこだわりを本当に捨て切る事を「死に切る」と表現します。
生きながらに、死ぬ。良くわからないかもしれませんが。
「ネバナラナイ」「こうでアルベキ」「〇〇と比べると私は劣っている」全てジブンで考えた価値判断、評価の基準がジブンにあるのです。このジブンは自我と言います。

私の祖母は食べ物を食べるとすぐに「おいしい」だの「まずい」だの言います。これは味ではありません。味はその味がしているというだけ。しかし、すぐに感想がその味かのごとく出てきてしまうのは、なんとも悲しい。その味がしたそのまま、でいられる。そういう状況があるのです。ジブンが全くない様子。

必ず誰にでもあるはずなんです。一瞬でもあるのです。しかし、その事実の直後に考え方を付け加える。これは小さいころからの癖ともいえます。
事実に目を向けることは、本当に生きながらに死に切る救いの道です。
命は絶たなくていい。生きてください。
救いの道はお釈迦様の時代からずーっと示されています。
そのためにお坊さんがいるのです。hasunohaがあるのです。
また、迷ったら相談してください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

善い流れへと向けて

ま。様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

何が自分か・・これが自分だろうか、いや、あれが自分だろうか・・と色々と探しだそうとするのですが、結局は実体としての自分はどこにも見つからないのです。

自分のことが嫌い、許せないとしても、その自分そのものが本来実体として見当たらないのであります。

同じように、自分を殺したいとしても、その自分というものも実体としては見当たらないのであります。

もちろん、実体としては無くても、貴女様は現に存在はしています。無いわけではありません。無いわけではないのですが、何が自分という存在を成り立たしめているのかといえば、五蘊(色・受・想・行・識)を中心として色々な自分を成り立たしめている要素が寄せ集まって何とか存在できているだけなのであります。

それらの善い要素、つまり、善い因縁(原因と条件)には、自分でも何とか頑張って調えられるものもあります。善い因縁(原因と条件)によって、善い結果は望めるものとなります。

結果は、全て因縁次第。因縁次第では、すぐに好きにも、許せるようにもなれるものです。

死にたいぐらいに悩み苦しんでいる因縁を、何とか仏教にて解決させて、善い因縁として、善い流れを調えて参りたいものでございます。

是非、hasunohaも大いに参考として、更に仏教により関心を持って学び修して頂ければと存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ありがとうございます。
お礼が書けなくて1日たってすみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
たくさん関わってすみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
他人と比べてすみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
0時に起きててすみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
自分嫌いですみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
癖持ってすみませんでした。
お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。
仏教分からなくてすみません。
お返事ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ