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どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?

回答数回答 7
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タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もし、また同じような質問を受けたら、

「私も分からないから、一緒に考えてみようか」と、その方に寄り添っていただけますか。

その質問をされる方は、その答えが欲しいのではなく、その質問を聴いてくれる人が欲しいのです。

どうせ死ぬのに、なぜ生まれたんだろう?
どうせ死ぬのに、なぜ生きるんだろう?
その子もどうせ死ぬのに、なぜ子どもを授かるのだろう?

答えの見つからない問いですよね。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...

生まれて生きて死んで終わりなら仏教は要らない。

少し難しいことを言うことをお許し下さい。

仏教は、前生(前世)・現生(現世)・後生(来世)の三世を見通して説かれた教えです。
つまり輪廻を説いているのです。
輪廻ですから、死んで終わりということはあり得ません。
死ぬと後生が始まります。
良いことをしていれば良い所へ生まれ、悪いことをしていれば悪い所へ生まれます。
これを自業自得といいます。

今の私が生まれて生きているということは、前生の私が死んだ結果です。
今の私は輪廻をグルグルと繰り返している状態です。
この輪廻のループから解脱し仏になるのが仏教です。

「どうせ死ぬのに何故生きるのか?」という問いですが、今生きているのは私の意思ではありません。
遥か過去からずっと強制的に輪廻してきたのです。
いつこの輪廻が始まったかも分かりませんから「無始」と経典に出てきます。
生きたくなくても、死にたくなくても、輪廻から逃れることができずにずっと繰り返してきたのが今の私の在り様です。

だから「生きている」というよりも「輪廻のループから逃れられていない」ということです。
仏教はこの輪廻から解脱し仏になる教えです。
この教えを聞くチャンスは人間である今しかありません。
後生は地獄かもしれませんし、犬や猫や虫かもしれません。
人間に生まれる可能性は限りなく0に等しいですから、今のチャンスを逃す訳にはいきません。
今、この命で仏様の教えを聞かなければいけません。

だから私は「なぜ生きるのか?」と問われたら「仏様の教えを聞いて仏になるため」と答えます。
後生が救われているならば、いつ死んでも大丈夫です。
逆に、後生が未定のままならば、死ぬわけにはいかないのではないでしょうか?

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

私の死は、私がどう生きるかに繋がっている

亀山純史と申します。
私たちは、物は壊れる性質を持っていることを知っているので、物を大切に扱おうとします。それと同じように、私たちは死すべき存在であることを知っているので、この人生を充実したものにしたいと思うのです。では、「私たちはどうせ死んでしまうのだから、どう生きてもいいのではないか。」とか、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか。」と考える人へはどう答えればよいのでしょうか。このことに対する私からの回答を、以下に載せておきます。

平均寿命という言葉がありますが、これは決して私たちの死が数十年後先に待ち構えていることを意味しているのではありません。死はいつ私たちに訪れるかわからないのです。「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、…されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕には白骨となれる身なり(蓮如上人『白骨の御文章』)」なのです。つまり、「“生きること[生]”は“死ぬこと[死]”と共にある」のであり、これは逆から言えば、「“死ぬこと[死]”は“生きること[生]”と共にある」のです。“生きること[生]”の帰着点に“死ぬこと[死]”があるのではないです。ですから、「私の死は、私がどう生きるかに繋がっている」のです。もしも私たちが不死なる存在であったならば、「生きる」という言葉・概念は存在しなかったでしょう。人類は、「私たちは常に死すべき存在である」ということを認識できたからこそ、「生きる」という言葉・概念を生み出したのであり、「生きる」ことの大切さを宗教・哲学を通して説いてきたのだと思います。

以上、私なりの回答をさせていただきました。少しでも質問者のせいやさんのお役に立てればと思います。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

素晴らしい質問だと思います

まさにその問いこそがお釈迦さまが出家した動機でありました。
禅では「己事究明(こじきゅうめい)」といいますが、「どうせ死ぬのに自分は何のために生まれてきたのか?」という、その問題を解決するために修行する訳です。
残念ながらその答えは親子夫婦といえども他人に教えられるものではありませんし、他人から教えて貰えるものでもありません。ですから自分自身で冷暖自知(れいだんじち)といいますが、自分自身で自分の生きている意味は見つける他ありません。
せいやさんもせいやさんにお訊ねになったその方も、答えが見つかることをお祈りしています。

さてこの質問のお答えですが、わたしならば「その答えを見つけるために生きているのでは無いですか?」とお答えしますね。

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昭和39年生。昭和62年佛教大学卒。

どうせ生まれ変わるのに、なぜ死ぬのですか?

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遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...

死にたくないから生きている

死にたくない、生きようとする、そのようなはたらきをもったシステムが生命体でないでしょうか。
仮に、死にたいと願う種族があったとしたら、その種類の生物はすぐに絶滅するでしょう。
だから結果的に、地球に残ったのは生きたがる性質のシステム(生き物)なのです。
また、仏教では自業自得と言われます。
前世で「まだまだ生きていたい」と、不完全燃焼で死んだから、今、こうして生きているのではないでしょうか。
昨日眠るとき、まだまだ生きていたかったから、今朝も、目が覚めたのではないでしょうか。
苦しみから逃れたいから死にたいという人間はいても、本気で心底生きることへの執着を克服できた人は少ないのではないでしょうか。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...

「不生不滅」の境地へと向けて

せいや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?」・・そうですよね・・誰もが皆、いつかどこかで、この矛盾なるあり様に悩み苦しむことがあるのではないかと存じます。拙生ももちろんそうでございました・・

生きる意味や生きる事につきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えをさせて頂いて参りました。お時間がございましたら少しだけでも覗いて頂けましたらと存じますが、hasunohaにおいても、誠に多くの方がこの問題について悩んでおられご質問なされていることが理解できるかと存じます。

「生きる意味について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html

「生きる事について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318925.html

そして、拙生なりの最近の一つのお答えと致しましては、般若心経に出て参ります「不生不滅」という言葉の示す意味内容が解決へと向けたヒントになるのではないかと存じております。

「不生不滅」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅

般若心経だけではなく、仏教における悟りや涅槃の境地を表すのに、「不死の境地」、「不生の境地」というような表現が出て参りますが、まさに悩み苦しみの無くなったところにおける心境を示すものであるかと存じております。

正直に、ざっくりと申しますと、「生も死もございません」というところとなりますが、仏教を学んだことのない者にとりましては、「?」になってしまうかとは思います。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?」・・

『迷い苦しみのない「不生不滅」の境地へと向けて、是非、これから仏教を学び修していく中で、共に考えていきましょう。』とそのご友人と連絡が着くようでございましたら、どうかお伝えを頂けましたら幸いに存じます。とにかくまずはそのご友人がご無事にありますようにと心から祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究 この度、仏...

質問者からのお礼

和田隆恩様。回答有難うございます。その問いを彼から問われた時、つい答えを返そうとばかり考え、沈黙してしまいました。相手の気持ちを察する事が出来ず、彼には辛い思いをさせてしまったのかもしれません。質問の欄にも書きました様に、音信不通になりましたので、本当に心中したのかどうかも解りません。ですが、一年に約三万人の自殺者が出る日本ですので、もしかしたら、また自殺願望のある人に出会うかもしれません。その時は、相手の気持ちになって考えてあげられるように努めたいと思います。

釈心誓様。回答有難うございます。また彼の様な人に出会った時、貴方様の回答を参考にさせて頂きたいと思います。

亀山純史様。回答有難うございます。私は生きる事の大切さを彼に伝えられませんでした。それは私自身が生きる事の大切さを知らないからでしょう。この経験を活かしていけるように努めます。

山本 文匡様。回答有難うございます。お言葉を頂き、大変光栄に思います。言葉を通して伝えようとも語弊がありますので、ただ私は感謝をする事しか出来ません。

遠藤喨及様。回答有難うございます。多くは申しません。別の物で表現すると齟齬が生じますので、ただお礼を申す事しか出来ません。

「生きる意味」問答一覧

生きている意味がわからなくなりました。

結婚20年目、子供が四人います。 半年前に夫が不倫し、発覚。 女とは家族ぐるみで付き合いがあり、我が家に泊まったこともありましたし、女には婚約相手もいたので寝耳に水。 信じていた二人に裏切られたことがショックで息をするのも苦しく、夜も眠れない毎日でした。 女と連絡も絶ってくれて、 半年たち本当に少しづつですが日常を取り戻しつつある様にも感じていましたが、 夫に「何年も前から家族だと思えなかった。今もそうだ。」と言われました。 二十年間、色々ありましたが、夫のことは信頼していたし、愛していましたが、 夫の裏切りで、自己肯定感も夫への信頼もなくなってしまった今、 夫がその様に家族や夫婦を否定しているので離婚するしかないのでしょうか? 彼のことを愛して信じてきたこれまでの二十年間はなんだったでしょうか? 四人の子供を産み、育ててきた時間はなんだったんでしょう? 夫の不倫を知って以来、20年の全てを失った様な気がしています。 楽しいことも、嬉しいことも、やりたいことも何もなくなってしまいました。 仕事も手につかず、子供にも辛く当たるばかりの毎日。 生きているってなんなんでしょうか?

有り難し有り難し 8
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自分の生きる意味が分からなくなりました。

お忙しい中、失礼いたします。 初めて相談させていただきます。 不躾ではありますが、早速本題に入らせていただきたく存じます。 私は幼い頃より厳しく躾けられ、失敗などはありながらも少しは成長して生きてきたと自負しております。 大きな企業ではないですが管理職をしながら夢(芸術関係の仕事です。)に向かって歩んできました。 しかし先日、その夢のせいで家族に迷惑をかけていると打ち明けられました。 いい年なんだから、夢を諦めるべきと言われました。 私としては、その夢のために今まで頑張ってきたのでひどく衝撃を受けました。 私の夢に付き合わせてはいけないと恋人も作らずに生きてきました。 多くはありませんがファンがつき始めたのでこれからだという時でしたし、タイミングよく母の知り合いが今より給与の良い会社への転職を薦めてきたこともあり家族内でも私への風当たりが強まっているのを感じます。 ずっと思い続けてきた夢を諦めた方が家族にとって良い事なのは分かっています。 ですが、夢に全てをかけてきた私は生きる意味というものに苦悩しています。 最近は夜も眠れないほどに悩んでいます。 「周りから見れば年甲斐もない夢」など捨てるべきなのでしょうか? 乱雑な文章で大変申し訳ありません。 御僧侶のお考えをご教授いただければ幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

生きることに価値はあるのか

はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。

有り難し有り難し 5
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「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

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