どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?
ありすぎてどれを書いたらいいのかわからない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もし、また同じような質問を受けたら、
「私も分からないから、一緒に考えてみようか」と、その方に寄り添っていただけますか。
その質問をされる方は、その答えが欲しいのではなく、その質問を聴いてくれる人が欲しいのです。
どうせ死ぬのに、なぜ生まれたんだろう?
どうせ死ぬのに、なぜ生きるんだろう?
その子もどうせ死ぬのに、なぜ子どもを授かるのだろう?
答えの見つからない問いですよね。
生まれて生きて死んで終わりなら仏教は要らない。
少し難しいことを言うことをお許し下さい。
仏教は、前生(前世)・現生(現世)・後生(来世)の三世を見通して説かれた教えです。
つまり輪廻を説いているのです。
輪廻ですから、死んで終わりということはあり得ません。
死ぬと後生が始まります。
良いことをしていれば良い所へ生まれ、悪いことをしていれば悪い所へ生まれます。
これを自業自得といいます。
今の私が生まれて生きているということは、前生の私が死んだ結果です。
今の私は輪廻をグルグルと繰り返している状態です。
この輪廻のループから解脱し仏になるのが仏教です。
「どうせ死ぬのに何故生きるのか?」という問いですが、今生きているのは私の意思ではありません。
遥か過去からずっと強制的に輪廻してきたのです。
いつこの輪廻が始まったかも分かりませんから「無始」と経典に出てきます。
生きたくなくても、死にたくなくても、輪廻から逃れることができずにずっと繰り返してきたのが今の私の在り様です。
だから「生きている」というよりも「輪廻のループから逃れられていない」ということです。
仏教はこの輪廻から解脱し仏になる教えです。
この教えを聞くチャンスは人間である今しかありません。
後生は地獄かもしれませんし、犬や猫や虫かもしれません。
人間に生まれる可能性は限りなく0に等しいですから、今のチャンスを逃す訳にはいきません。
今、この命で仏様の教えを聞かなければいけません。
だから私は「なぜ生きるのか?」と問われたら「仏様の教えを聞いて仏になるため」と答えます。
後生が救われているならば、いつ死んでも大丈夫です。
逆に、後生が未定のままならば、死ぬわけにはいかないのではないでしょうか?
私の死は、私がどう生きるかに繋がっている
亀山純史と申します。
私たちは、物は壊れる性質を持っていることを知っているので、物を大切に扱おうとします。それと同じように、私たちは死すべき存在であることを知っているので、この人生を充実したものにしたいと思うのです。では、「私たちはどうせ死んでしまうのだから、どう生きてもいいのではないか。」とか、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか。」と考える人へはどう答えればよいのでしょうか。このことに対する私からの回答を、以下に載せておきます。
平均寿命という言葉がありますが、これは決して私たちの死が数十年後先に待ち構えていることを意味しているのではありません。死はいつ私たちに訪れるかわからないのです。「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、…されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕には白骨となれる身なり(蓮如上人『白骨の御文章』)」なのです。つまり、「“生きること[生]”は“死ぬこと[死]”と共にある」のであり、これは逆から言えば、「“死ぬこと[死]”は“生きること[生]”と共にある」のです。“生きること[生]”の帰着点に“死ぬこと[死]”があるのではないです。ですから、「私の死は、私がどう生きるかに繋がっている」のです。もしも私たちが不死なる存在であったならば、「生きる」という言葉・概念は存在しなかったでしょう。人類は、「私たちは常に死すべき存在である」ということを認識できたからこそ、「生きる」という言葉・概念を生み出したのであり、「生きる」ことの大切さを宗教・哲学を通して説いてきたのだと思います。
以上、私なりの回答をさせていただきました。少しでも質問者のせいやさんのお役に立てればと思います。
素晴らしい質問だと思います
まさにその問いこそがお釈迦さまが出家した動機でありました。
禅では「己事究明(こじきゅうめい)」といいますが、「どうせ死ぬのに自分は何のために生まれてきたのか?」という、その問題を解決するために修行する訳です。
残念ながらその答えは親子夫婦といえども他人に教えられるものではありませんし、他人から教えて貰えるものでもありません。ですから自分自身で冷暖自知(れいだんじち)といいますが、自分自身で自分の生きている意味は見つける他ありません。
せいやさんもせいやさんにお訊ねになったその方も、答えが見つかることをお祈りしています。
さてこの質問のお答えですが、わたしならば「その答えを見つけるために生きているのでは無いですか?」とお答えしますね。
死にたくないから生きている
死にたくない、生きようとする、そのようなはたらきをもったシステムが生命体でないでしょうか。
仮に、死にたいと願う種族があったとしたら、その種類の生物はすぐに絶滅するでしょう。
だから結果的に、地球に残ったのは生きたがる性質のシステム(生き物)なのです。
また、仏教では自業自得と言われます。
前世で「まだまだ生きていたい」と、不完全燃焼で死んだから、今、こうして生きているのではないでしょうか。
昨日眠るとき、まだまだ生きていたかったから、今朝も、目が覚めたのではないでしょうか。
苦しみから逃れたいから死にたいという人間はいても、本気で心底生きることへの執着を克服できた人は少ないのではないでしょうか。
「不生不滅」の境地へと向けて
せいや様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?」・・そうですよね・・誰もが皆、いつかどこかで、この矛盾なるあり様に悩み苦しむことがあるのではないかと存じます。拙生ももちろんそうでございました・・
生きる意味や生きる事につきましては、これまでにも下記の各問いにてお答えをさせて頂いて参りました。お時間がございましたら少しだけでも覗いて頂けましたらと存じますが、hasunohaにおいても、誠に多くの方がこの問題について悩んでおられご質問なされていることが理解できるかと存じます。
「生きる意味について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html
「生きる事について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318925.html
そして、拙生なりの最近の一つのお答えと致しましては、般若心経に出て参ります「不生不滅」という言葉の示す意味内容が解決へと向けたヒントになるのではないかと存じております。
「不生不滅」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅
般若心経だけではなく、仏教における悟りや涅槃の境地を表すのに、「不死の境地」、「不生の境地」というような表現が出て参りますが、まさに悩み苦しみの無くなったところにおける心境を示すものであるかと存じております。
正直に、ざっくりと申しますと、「生も死もございません」というところとなりますが、仏教を学んだことのない者にとりましては、「?」になってしまうかとは思います。
「どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?」・・
『迷い苦しみのない「不生不滅」の境地へと向けて、是非、これから仏教を学び修していく中で、共に考えていきましょう。』とそのご友人と連絡が着くようでございましたら、どうかお伝えを頂けましたら幸いに存じます。とにかくまずはそのご友人がご無事にありますようにと心から祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
和田隆恩様。回答有難うございます。その問いを彼から問われた時、つい答えを返そうとばかり考え、沈黙してしまいました。相手の気持ちを察する事が出来ず、彼には辛い思いをさせてしまったのかもしれません。質問の欄にも書きました様に、音信不通になりましたので、本当に心中したのかどうかも解りません。ですが、一年に約三万人の自殺者が出る日本ですので、もしかしたら、また自殺願望のある人に出会うかもしれません。その時は、相手の気持ちになって考えてあげられるように努めたいと思います。
釈心誓様。回答有難うございます。また彼の様な人に出会った時、貴方様の回答を参考にさせて頂きたいと思います。
亀山純史様。回答有難うございます。私は生きる事の大切さを彼に伝えられませんでした。それは私自身が生きる事の大切さを知らないからでしょう。この経験を活かしていけるように努めます。
山本 文匡様。回答有難うございます。お言葉を頂き、大変光栄に思います。言葉を通して伝えようとも語弊がありますので、ただ私は感謝をする事しか出来ません。
遠藤喨及様。回答有難うございます。多くは申しません。別の物で表現すると齟齬が生じますので、ただお礼を申す事しか出来ません。