回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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霊とは自分の心象作用
A「絶対にジバニャン(霊)っていると思うんス
B「いません、あれはアニメです
A「います!(怒)この坊さん、話にならニャイ
B「この質問者、話にならニャイ
C「ジバニャン、いるよ!コッチおいで
A「でしょ?ワーイこの人のこと信じよー
B「ダメだこの人、騙されちゃって…
C「会わせてあげるからお金頂戴ー
A「ハーイ喜んで
D「ちょっと待つニャン。こっちにもいるよジバニャン。それはあなたの思いの事にゃん
AB「え?
C「ち…邪魔しやがって…( `ー´)
今日はDの丹下です。霊を認め、自身の不幸、不運が霊によるものであると錯誤するアナタは霊を認める世界の人間、自称霊媒師、自称呪術師、自称霊能力者によってさらに救われたとしても、さらに蝕まれる事になりましょう。
彼らは巧妙な手法によって、心の病、体の病を治してあげるという大義名分のもと高額請求します。
よって、それは救われたのではない。
それは自らの描いた妄想図式の通りに都合よく進んだという心理を利用して、ノセて乗せてさらに地獄行きの列車に乗せられ、定期まで買わされます。
だから必ず最初にあなたを肯定する!←ここ重要
あなたの妄想に同情する。そういう人間にはきをつけろ!です。
精神科で薬漬けにされてしまうのと同じ図式です。
「病気だと思うんです
「ハイ。そうです。YES!ビョーキです。お薬ノモーネ
あんまりいうと営業妨害になりますのでこの辺で。
そもそも何を以て人はそれを名付けて霊と呼んでいるのでしょう。
それが霊であるという確証も科学的根拠も無しに。
およそ人は真実をみぬ内から、自分の中で、そうに違いない、きっとそうだと錯誤し、自分の考えを盲信する。それをこそ悪しき霊惑と言わずして他に何の霊かあらんや。
霊とは、自分の思いに他ならない。あなたの場合においては霊のしわざだという自らの思いなのです。
除くべき霊があるとすればそれ以外に何もないでしょう。
自分が霊だと思っているそのことにきちんと冷静にむきあってみましょう。
どこかに必ずあなたの後ろめたい事や恐怖などが関連しているはずです。
意味が分かるまで読んで頂き、分かったらまたご質問ください。
仏教は「霊魂」を明確に否定しています。
除霊という概念自体がありません。
なので徐霊は誰にもできません。
一般的にに「霊」とは、魂が浮遊している状態を言いますね。
幽霊とかオバケなどは何かしらの魂がこの世に残っているという状態を表す表現です。
しかし、仏教という教えは「全てのモノには魂はない」と悟られたことに始まります。
それを「空」「無我」「無自性」「縁起」等と言います。
魂はないのだから霊は存在しないというのが仏教の立場です。
六道の中に「幽霊」はありません。
だから「霊魂が見える」とか「死んだら霊になる」という論理が生まれる事自体がおかしく、これをしっかりと否定できない僧侶が大問題なのです。
「死んだらどうなるか分からない」
「霊がいるかどうかも分からない」
これは本当にゆゆしき問題です。
夢の中で正誤を語ってもどちらも間違いです。
霊魂の話しは結構いろんな立場があると思います。
ですから、「ある」と断言する事も「ない」と断言することも出来ません。
なぜなら、我々が日々暮らしているこの世界だって
実はふか〜〜〜く瞑想してみると、この世界だって「ある」と断言できないのではないでしょうか?
夢の中で「あいつ夢なんか見て馬鹿みたい」と笑うようなものだと思います。
よくよく考えてみると、
「無い」ものを「ある」として生活しているのが我々です。
過去だって未来だって実在はしません。
過去は過ぎ去り未来はまだ来てはいません。
「ない」ものを「ある」と感じ取り生活をしている我々は
ある意味「迷いの世界」の住民だと思うのです。
仏教では六道輪廻と言う世界観があります。
六道とは
「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天上界」です。
これらは全て迷いの世界なのです。
生まれ変わり死に変わり、この六界をぐるぐる巡ると言うことです。
生まれ変わり死に変わる…不思議に思いませんか?
「なに」が生まれ変わるのでしょうか?
そして、仏に浄土へ導かれるのは「なに」でしょうか?
その「なに」が無いのに「ある」と思っているとすると
我々が個としての「自分」があること事態が変であると言う事になります。
我々はそういった迷いの世界の渦中にいるのだと思います。
本来 誰一人として生まれても死んでもいない…
…なんってぇ事言ったらこの世の中では精神病院へ連れて行かれるかもしれませんね。
私の私見ですが…
この迷いの世界の中で「個」としての「自分」があると感じる立場を取るとすれば
「霊魂」も恐らく実在すると感じると思います。
それもありありとリアルに…。
それがあるから六道を輪廻するのだと思うのです。
死という現象をきっかけに「迷いの世界」から目覚めるために
「葬儀」や「法事」があるのだと思っています。
除霊と仰っておられますが、
この迷いの世界に存在する霊魂を除すると言う事は
歯が痛いから鎮痛剤を飲む…という事に似ていると思います。
虫歯を治す事をせずに鎮痛剤を飲んでも、何度も歯は痛くなる事でしょう。
坐禅で自分を空じる事が出来ないときは。真言密教を学んで下さい。
昔、天動説と地動説が議論され聖書にこう書かれていたから天動説は間違っていると思われていましたが、実際には地球は動いていました。
霊について
のん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
霊や霊魂、霊感・憑依などのことは、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますが、霊や霊魂の存在については、仏教の基本的な考え方としては、やはり「無記」として扱うべきであるかとは存じております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319683.html
ただ、実は、このことに関して完全に否定してしまうわけにはいかない方便的なところでの複雑な大人の事情がございます・・そのため、霊感に関わることで、下記のようにも述べさせて頂いております。
『・・「霊感」を宗教的な面から捉えようとして考えますと、その根拠や証明、論証の曖昧さが生じてしまうため、非常に難しい問題を孕むことにもなります。ただ、あくまでも仮定でありますが、もし「霊感」があるとしても、色々な因・縁(原因や条件)により成り立っている「縁起」なるものであり、実体として、独立自存としては成り立っていない「空」なるものであるかとは存じます。その因・縁をより善くに調えることで、当然に結果も改善させることができるのではないかとは存じております。・・とにかく霊や魂と、生前も死後においても、実体、独立自存として存在しているものではないということだけは言えるかと存じております。・・』
「・・到底、論証・証明のできないようなことを扱うのは所詮ナンセンスで、私たちの現実の迷い苦しみを解決させていく上で何ら役に立たないことであり、特に、この霊の存在についても典型的なもので、釈尊は「無記」として扱われた次第となります。もちろん、釈尊は全知者でありましたが、あえて意味のないようなことを議論する必要がないとお捨てになられたのでしょう。それよりも、善き行いを積みて、善き因果の流れに乗りて、善き赴きへと向かうことに、しっかりと取り組みなさいということでございます。・・」
とにかく、「除霊」云々につきましては、この際あまりお気になされず、とにかく、今よりもより善い結果を望まれるのであれば、より善い因縁(原因や条件)をしっかりと積んでいく、そのための善徳行、慈悲・利他行に励むこと、功徳を積むことが何よりも肝要になるのではないかと存じております。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌