死刑について
数か月前、TVで池田小児童殺傷事件の被害児童(女児)の母上にインタビューする報道番組を視ました。事件から15年が経過し、加害者の刑も執行された現在でも、事件当時の状況を知ると改めて「赦せねぇ」と腹の底からムラムラこみあげる怒りを覚えます。
僧侶の皆様にも、まだ小さいお子様のおられる方がいらっしゃると思います。上記のお母さまの立場にたたれて考えてなお、死刑は廃止されるべきと、言える方はいらしゃいますか?
私が、被害者遺族の立場で考えた時、とても「生きて、償ってほしい」とは考えられないと思います。
一番望ましいのは、加害者が犯した罪を心から悔い改め、被害者とその遺族に心からの懺悔と謝罪を示したうえで、潔く刑に服してくれることではないかと思います。また、それが加害者自身も唯一救われる道ではないかと考えます。
さらに、死刑について論じる時、「どんな理由があっても人が人を殺めるのはいけない」と言われる方がいらっしゃいますが、法治国家において執行される死刑は、人でなく法が行っているといえるのではないでしょうか?
僧侶の皆様のご意見をお聞かせください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
犯罪者を殺しても変わらない事実がある
死刑が良いことか悪いことか
良いか悪いかの前に死刑を望む人たちが大勢いるというだけです。
また、人道上、死刑にすべきではない、どんな悪人にも命は尊いと思う人命を軽んじてはならない主義の人がいるというだけです。
雷で人が死ぬと、人は誰も抗議をしない。
人が人を裁き人のルールで殺すから私憤が生ずるのです。
人間の命ばっかりどんどん増えたら、人口百億超えていよいよ資源も食べ物も不足し、どのみち殺し合いになり「アレ?お前、人命尊重するはずじゃなかったっけ?」という人も戦争に行く羽目になったりするもんにて候。
先日の痛ましい事件をはじめ、オウム真理教の麻原被告、酷い頃され方をした人の家族からすれば「さっさと死刑にして欲しい」と思われている人間が現実にいます。
死刑反対!と訴える人でも身内や愛する人を理不尽にむごたらしく殺されれば殺した人を「死刑」にして欲しいと望む人も出てくるでしょう。
ですが、この話の最大の論点、結論とすべきことは、
「自分の怒りの心」を見つめることにこそあると思います。
ここは多くの方の盲点です。
そいつを死刑にしろ!!と思ってしまう、思ってしまうことくらいは感情的に誰にでもあるでしょう。
ですが、その感情がしずんで静かになった時、寝ている時、忘れている時、相手が死刑になろうがならなかろうがどうでもいいくらいに忙しい時、人は自分のルールの押しつけが止んでいるものですよ。
人を殺したからって罪悪感を感じない人間もいるのです。
快楽殺人、ISIS、サイコパス…、彼らは仏教界でいうところの畜生界ですから、人間のこころがない。
だから死刑にして良いのか、悪いのか。
物事は良いと悪いとでは判断できないことがある。
善悪のこころは誰のどこが判断を下さいているのか。
善悪の二見という小さなものの見方に縛られるものが、その相対論から抜け出せなくなるだけの話である。
カラスはゴミをあさる、鳥が畑の植物をつつく、殺していいのか、虫が大量に発生する。
死刑にしろ!
怒るその心は殺人者と同じ殺意の心。
だから、その怒りのこころに世界中の人が向き合う必要がある。
「誰の何処の心が騒いでおる!?」
それが仏教からのメッセージです。
被害者と加害者の立場、両方を考えなくてはならないのでは…?
確かに残忍が犯罪が起きると、犯人には身をもって償うべきだという思いがわき起こります。
私にも、娘がおります。もしも無惨に殺害されたなら、それでも犯人に生きて償えと言えるかどうか自信がありません。ただ、息子もおります。何らかの理由で犯罪を犯したなら、いのちを持って償えと言い切れるのか、又母である坊守もそう言うのか、そこに疑問もあります。
「法治国家において執行される死刑は、人でなく法が行っている」というお考えは、その通りであると思います。ただ、その法を制定し、支持しているのは私達国民一人一人です。人一人の命を絶つのに、法が行ったことで私には無関係だとは言えないでしょう。
殺人はその事件が起きた段階で、取り返しのつかない、もう どうにもならないことになってしまっているのです。犯人が死刑になっても被害者が帰ってくるわけではありません。もう遅いのです。
ですから、私達一人一人が、事件を起こさない、又起きない世の中を作っていく義務があると思います。
誰だって好きで、殺人を犯すわけではありません。「どんな極悪犯も、そうなっていった原因がある」わけで、それを止められなかった同じ時代を生きる私に全く責任はないか?と問われると答えに窮します。
どうか犯人憎しで終わることなく、どうすれば事件を防ぐことが出来るか、その為に自分には何が出来るかをご一緒に考えていきませんか…。
怨みを捨てることが大切
「この世において、怨みに対して怨みをもって返すならば、ついに怨みは静まることがない。
怨みを捨ててこそ静まる。
これは永遠の真理である。」
お釈迦様の言葉です。
お釈迦様の国は隣国に滅ぼされました。しかし復讐などしていません。復讐は復讐を生み、終わりがないと悟っていたからです。
浄土宗の宗祖法然上人の父は夜襲を受け致命傷を負いました。子供だった法然上人が「必ず仇をとります」と言ったのに対して、父は最後の力を振り絞って言いました。「決して復讐するな。私が死ぬのは前世からの因縁によるのだ。お前は僧侶となり私の菩提を弔ってくれ。そして仏法を学びたくさんの人々を救ってくれ。」
法然上人の父も怨みを捨てることの大切さを知っていたのです。
ですから、仏教徒として、悟りを目指す者として、怨みを捨てることは大きな課題であります。
死刑がありかなしか、その前に、怨みを捨てることが大切なのです。
でも、難しいですね。
私も目の前で家族を殺されたら怨まないでいる自信はありません。
ですが、もしこの世から怨みが無くなれば、ほとんどの殺し合い、それによる悲しみが無くなると思いませんか?
悟りに至らなければ完全に怨みを捨てることはできないのかもしれません。ですが、私達は仏教徒ですから、お釈迦様の弟子ですから、やはり努力はしなければならないのだと思います。
お釈迦様ならどんな殺人者でも改心させることができたと思いますから死刑にはきっと反対されるでしょうね。
私は少しでもお釈迦様の教えに近づけるように努力するだけであります。
怒りは煩悩
怒り・憎しみは悩み苦しみの原因(煩悩)です。
人間は必ず死にます。
たまたま殺人鬼によって死ぬ人も、病気で死ぬ人も、事故で死ぬ人もいる、というだけです。
それについて怒ったり悲しんだりしてしまうのは、私達の煩悩に問題があるのです。
ですから、理想は、たとえ犯罪被害者になっても怒らず憎まず、加害者が幸せになるのを願うくらいの慈悲と理性のかたまりになることです。
キレイごと(理想)ですが、社会の中で、宗教者くらいはキレイごとを語り続けて欲しいです。
また、たとえば私が家族を殺され、犯人に対して逆上してしまったとしたら、誰か冷静な第三者にキレイごとで私を説得し、落ち着かせて欲しいです。
なので、世の中に、キレイごとを説き続けてくれるお坊さんが必要だと思います。
ただ、実際に死刑制度がある日本で死刑に相当する犯罪を犯すのは、ある意味その人の自殺行為だと思います。
私は、成人式の日に全国民に、「私が犯罪をおかしたら死刑にされてもかまわない」と誓約させるべきだと考えます。
なお、人の命も動物の命も大切です。人間でも虫でも殺す必要がないなら殺さないほうが良いです。蚊取り線香を焚いている時点で、死刑をうんぬん語る資格はないのかも。
質問者からのお礼
願誉浄史様、小林覚城様、ご回答感謝いたします。
お二人に同意できるトコロもあるのですが、引っかかっています。
質問しておきながらなんですが、”死刑の是非”、そして、”人が人を殺めるということ”について、考えれば考えるほど、あっち、こっち、思考が散らばって、まとまりがつかなくなっています。
納得のいく考えが得られたとき、続きを書かせていただきます。
とりあえず、有難うございます。
丹下覚元様、とりあえず有難うございます。
う~ん、もう一回読んでみます。
聖章様、ご回答感謝いたします。
ハイ、「怨みに怨みをもって報いるならば怨み尽きることなし」お釈迦様の御言葉のうちで、私もとくに好きです。
しかし、この場合の”死刑”は、”十分に個人の権利に配慮した、成熟した法治社会において執行されるべきもの”、という前提に立ったものであり、もっとかみ砕いて言えば、”群れの皆で決めた掟を犯した者に、その責任を取らせる”、というコトで、”怨み”という表現は当たらないと思います。
が、昨今の忌まわしい事件を思い返すとき、そこに”憎い”という感情がないとはいえません。
自分なりの正答を得られるまでは、もう少し時間が必要なようです。