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迷信深い母に困っています

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70台の母が迷信深く困っています。母の実家は曹洞宗で、結婚後は浄土真宗です。父はすでに他界しました。母の両親も他界しており、実家のお墓や仏壇の世話もしています。母にとっての信仰とは仏事をとにかくつつがなくこなすことのようで、仏壇に線香を上げたり、墓参りをしたり、法事をこなしたりは熱心ですが、お経をあげたり仏教書を読んだりしているところはみたことがありません。毎月のお坊さんへの謝礼や、法事の出費に加えて、本山に分骨したり、収入にみあわない出費をしています。そのような生活スタイルはもう変わらないと諦めていますが、自分の死語に私に法事を引き継いでもらいたいと思っているようです。しかし私は無信心なので儀式を引き継ぐつもりはありません。母に信仰の自由を認めさせるにはどうしたらよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無宗教も迷信の一つと知るべし

宗教なんていらんわいと思うなら中国を見なチャイナ。
文化革命で宗教を皆壊しにして個人主義、無宗教の結果がアレです。
母を嗤うならば中国に行っチャイナ。
もちろんいい中国人もいます。昔の中国人は立派な人が大勢いた。
今は立派な人はみんな監獄に入れられて獄中死。
東シナ半島も横取り。チベットやモンゴルも虐殺。侵略。非難すれば逆切れ。人権も宗教のへったくれもない。
それが、無宗教=自分中心思想の現実、生のリアルタイムです。
ですが、私も寺の生まれてとはいえ昔は無宗教で個人主義でした。
結局、個人主義というものは自分中心な生き方になるだけです。
迷信でも救われている方がまだマシです。
迷信というのは、深い意味では仏教だって迷信仏教はあります。
無宗教者たちだって、宗教はイランと迷信もっていますが、その結果、地球がどうなっているのかね?
無宗教者たちのホンネは単に宗教に金使いたくないという自分中心な我が身可愛がりの心です。
私も僧侶ですが自分以外の団体に布施をしています。
国を本気でよくしてくれそうな人間たちに支援しています。
あなたは人のこと、母親の愚かさのことを問題にしておられるが、自分自身の「非・自己中心的生き方」がまるで始まっとらんのじゃないのかね。
そこに目が向かない限り、私はあなたの方が愚かしいと思う。
どこそこの宗教、宗派に属すれば宗教者なのか。いいえ。
自分自身がエゴ、自我、我愛、迷い苦しみから離れる生き方をしなければ、非・自己中心的な生き方をはなれられないのです。そういう人間がどんどん増えたらどうなるか。
今の日本、中国、韓国、アメリカをみてください。誰が尊敬されるにふさわしい人物でしょうか。
人のふりを見てでもいいですから、我がふり(エゴ・自我)を治す生き方を選択しましょう。
どこに宗教に属してもいい、属さんでもいいです。
あなたが人から手を合わされるような宗教的生き方、非・自己中心的な生き方をなさってください。
それが分らなければ中国に行っチャ…(以下略)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

追記8月5日

仏事を大切にするのは、お子さんの情操教育には良いと思います。
どこかで聞いた話ですが、犯罪者の育った家は、一般家庭よりも
仏壇がない確率が高かったという話もあります。

しかし、お金のかけかたについては、身の丈に合った範囲内でやるのがよいですね。

間寛平さんが昔歌った歌、作詞作曲は山本正之さんですが、こんなフレーズがありました。
「ジジイは何でも念をおす 自分が忘れっぽいからね ジジイは仏壇よく拝む もうじき引っ越す場所だから」。

先祖供養は、先祖のために念仏をとなえるだけでもよいので、たまにはやってあげてください。

追記8月5日

信教の自由については憲法を根拠にでもして説明されてはどうでしょうか。
お坊さんとしては、あなたにも仏教を信じて欲しいです。
仏教は悩み苦しみの原因をなくしたり制御する知恵です。
迷信への執着は悩み苦しみの原因になります。
お母様にもあなたにも、迷信ではなくブッダの教えを学んでいただきたいですね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

願誉浄史さん回答ありがとうございます。両親が葬式や墓地、法事に散財したお金は数100万になります。それよりも孫にいくらかでも残してくれればいいのにという気持ちはありますが、そこは信仰の自由ということで認めています。質問は私の信仰の自由をどう理解してもらうかということなのですが、質問に直接回答いただけなかったのは残念です。

丹下覚元さん回答ありがとうございます。質問は私の信仰の自由をどう理解してもらうかということなのですが、質問に直接回答いただけなかったのは残念です。

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