僧侶に階級があるのは何故ですか?
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。
僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか?
また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全てを見渡して下さい。それが仏教です!
曹洞宗の御開祖「道元禅師」は色衣を献上されても着る事無く一生黒衣で統されました。
もし宗教が色で差別をつけるなら道元禅師は色衣を着なくてはならいのですが、あえて着なかった。
本来宗教に差別はあってはならないものです。衣の色分けは区別としてあるのです!差別しているのお坊さんもいますが一般の方々の方が色を基準に見る傾向があります。
色んな僧侶が居る事も確かで色んな宗派の考えも存在します。この世は様々色々が集まって動いているのです。その上で見た目で判断する事の怖さがあります。貴方はどうでしょうか。
色で見分けるより中身、心で見分ける事を心掛けて下さい。
道元禅師様は何を言いたかったのか。
「色即是空」とはこの世に姿、形を持って生まれこの世の存在を肉体で確認しやがて誰もが訪れる生者必滅を迎え消え去って行き生まれる前の世界「空」へと戻るのです。
「空即是色」は、正しくその逆の事となり「空」の世界より「色」の世界へ生まれて来ます。
佛の世界では何時如何なる時にも目に見える事、見えない事は別の世界でなく一つの世界として捉え真実の在り方を突き進んで説かれおり道元禅師様は衣を通じてこの事も伝えたかったのではとも思います。この世の目に見えるものにこだわり過ぎれば見落とすものがある。色にこだわらず良きも悪きも全てを見渡して下さい。それが仏教です!
秩序かな
「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし己る、真に是れ諸仏の子なりと」
お葬式は、故人がお釈迦さまのお弟子さまになる「授戒」という儀式をしている(本来はもちろん生きているうちに行うもので、生きているうちにこの「授戒」という儀式を受ける事ができます)のですが、故人が仏戒を授かった直後に、導師さまが唱える言葉です。
だれもが、お釈迦さまの弟子となるこの儀式を受ければ、平等にお釈迦さまの子である、という意味です。
仏戒を授かった私たちはみんな平等です。でもホントに平等ではまとまりがありません。世界中で最も小さい組織である「家族」だって、親子・きょうだいなど、「階級」があります。
お坊さんの世界も、指導したり、取りまとめたりする人がいなくては、教団として成り立ちません。そのため「階級」があると思います。ですので、「オレは上流階級でエラいんだ」と、色のついたものを着けている訳ではなく、周囲から推されて所定の階級となり、色のものを着けているものと思います。
ですので「階級」というより「秩序」の意味合いの方が大きいと思います。
実際はいろいろあるかもしれませんが、ネットですのでここまで(笑)。
話を勝手に大きくしすぎ
等級があったら何でもかんでも身分差別なのでしょうか…そのお客さんの発想は突き抜けていますね。。。衣の色によって命令系統があるわけではありません。むしろ一番偉い人以外はほぼ名誉職ならぬ名誉色みたいなものです。一番偉い人だって天皇象徴制みたいな感じですし。そもそも大行事で役が当たっている時しか着ませんし。。。
ケチをつける人はどう転んでもケチをつけます。全員同じ色だったらどうなるか考えてみましょう。「お坊さん50人くらいいたけど、みんな同じに見えるから誰が主役で誰か脇役か分からなかった!有名な○○老師がいらっしゃるって言うから行ってみたのに(怒)」こうなります。
運営上の難もあります。「法要の打合せをしたいのですが…」「あぁ、責任者は○○老師だから老師に聞いて。黄色の衣の人だよ」「分かりました」で済むところが「(前略)老師に聞いて。80歳前後で坊主頭の人だよ」「いや、そのくらいの人が10人以上いるんですけど…」となります。
お坊さんの話ではありませんが、東国原氏が県知事時代に海外で会議か何かに出席された際、秘書だけ通され、東国原知事は通さなかったということがあったそうです。会場の警備員が秘書と知事を勘違いしたのですね。こういうことがあると警備員が処分を受けかねませんから、偉い人が偉そうな格好をするのはマナーです。
誰が決めるかと言いますと、本人が申請し、宗派の本部にあたる宗務庁が功績を審査して認定します。つまり誰にでもチャンスはあります。ただし、下半分はあまり変わりませんが、上半分は毎年の分担金のケタが変わるのでたいていのお坊さんは手を出したがりません。
最後に、お釈迦さまは社会的身分や年齢で差別をしませんでしたが、出家した順で先輩後輩の序列は作っていました。実務経験者なら当たり前の発想です。
色分けでわかりやすくしたのはきっと中国からでしょうが、日本では聖徳太子が輸入して官位十二階の色分けをした頃からおそらくあったのではないでしょうか。仏教が…というより、東洋の伝統といいますか、西洋化以前の常識みたいなものです。
20世紀後半の日本で権威を否定することを青春とした風潮があったのですが、そのお客さんの発想はその香りがしますね。赤い気がします。テキトーに聞き流しておいた方がいいと思いますよ。
一休宗純禅師と袈裟
苺様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
テレビアニメで有名な「一休さん」は、実在の一休宗純禅師がモデルとなっていますが、一休宗純禅師が大徳寺の住職をされていた時に、以下のようなエピソードがございます。
京都の町でも有数の富豪が、当時高名な一休宗純禅師に法要を依頼された際に、恐らくその富豪である施主について、あまり良い噂を聞いてはいなかった禅師が、まず、乞食に身をやつして、布施功徳をお願いしに門前に訪れたものの、その施主の指示により、門番から散々に打ちのめされて追い払われてしまいました。
そして、いよいよ法要となり、次は金蘭豪華な袈裟を纏って伺うと、施主が門前までやってきて、丁重に迎えられました。しかし、禅師は門前で動かず、「先にここに布施功徳をお願いしに参った時には、散々に打ちのめされて追い返されてしまった。今回は丁重なるお迎えであるが、それは、どうやら私に対してではなく、この金襴の袈裟に対してであろうと思われる。ならば、この袈裟を置いて私は帰ることにしよう」と言われて、帰ってしまわれたというお話がございます。
ややもすれば、人を身なり見かけで判断してしまう者に対してのお叱りの意があるのと共に、拙生の個人的な解釈となりますが、カタチだけの読経や回向ではなく、故人のための真の追善となる功徳を積む意思があるのかどうかを、試されて、そして、諭されるためだったのではないだろうかと考えます。
身なり見かけ、上下区別も大切で必要な場合もありますが、何よりも、それ相応の内実、真(まこと)も身に着けておきたいものでございます。
自省の意も込めて。
ちなみに拙寺はどこの本山にも属していない単立寺院にて、特に袈裟・衣の色も全く気にせずに済んでおります。拙生の衣は安価な黒衣、袈裟(黒以外の色袈裟)も二種類賜っておりますが、何色かにもこだわらずにカタログの一番安いもので済まさせて頂いております。単立寺院の有り難さです。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お忙しい中、ご回答下さいました僧侶の皆様有り難うございました。大変勉強になりました。
凰林寺/光禪様
「秩序」なのですね。偉いとか身分が上という事ではなく、統括、まとめ役とでもいいましょうか、社会生活の中ではどこの環境にも当てはまる様な気が致します。
山口秀徹様
「差別」と「区別」では全くの別物ですね。
そこをどう捉えるか、、、それはその人次第かもしれませんね。
私は、、、お客様にそう言われた時に言葉を失ってしまいました。
この世に見えるものにこだわり過ぎては本当に大切なものを見過ごしてしまう…本当にその通り、お言葉通りだと感じました。
大慈様
大行事があるときにしか着ないのですね。初めて知りました。
冠位十二階、ありましたね。
階級、区別されている事を「差別」、「偉い、偉くない」そう捉えてしまうのはその人のアタマですね。そう思い込み、それこそ「色眼鏡」。
色々な感じ方があるのだなあと、今回学びました。
岩瀧寺 往生院六萬寺/川口英俊様
一休禅師のエピソード、教えて頂き有り難うございました。
アニメとは随分かけ離れた方だと記憶しておりましたが、語り継がれるだけある方の様ですね。
私もこのお客様のお言葉から色々と考えさせられました。
お袈裟の色と言う話題で、いくつもの捉え方、気付き、戒めがありました。