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ふとした瞬間に、はずかしいことを思い出してしまう

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私は子供の頃から、いつも過去のことばかり考えることが癖になっているようで、それにより鬱になり、今という時間を無駄に過ごしています。

過去は戻らないから今を生きよう、と思っても気がつくと過去のことを考えてばかりで、なぜあんなことをしたんだろう・・・と自分を責めています。

あの時はああするしか仕方なかったんだ、自分が思うほど相手は気にしてないかもしれないから大丈夫だ・・・と思い直すんですが、気がつくと元の絶望感に襲われています。

また、大丈夫だ、解決したと思っても、次は別の恥ずかしい思い出が蘇ってきます。

自意識過剰なんですが、相手が自分の失敗をいつ、どこでも思い出している、相手の頭の中に私の失敗した記憶がずっとあることを考えると、穴があったら入りたくなります。

とにかく一日中、過去の出来事から離れられません。良いことならまだ楽なんですが、思い出すことは自分がしでかした失敗や恥ずかしいことばかりです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

フラッシュバックの克服法

人間どういう訳だか、時々過去のことが思い起こされてしまうものですね。
ですが、これをご覧いただいた後にまた恥ずかしいことが思い起こされた時に、よく観察して頂きたことがあります。
それは、その過去の嫌な思いが出てきた時、
①いつから、それが嫌な思いになるか。
②何をする事で、それが嫌な思いになるかということです。
実は、過去の思い出や記憶、フラッシュバックというものは、発生当初、思いが出てきた時点においてはまったく無毒無害なのです。
これは、瞑想や坐禅をされる方ならばよく理解できるのですが、自分を観る、自分を見つめる、自分の中に何が起こっているか「きづく」眼をお持ちでないと、分りづらいことと思います。
そもそもがその思いもあなたが起こそうとして起こってきたわけではないはずです。
全自動、自然発生、無我、自分の意思で作り出した思いではないのです。
ところが、思いが発生した直後、直後!直後!!に、あなたがその思いに対して主体的に取り扱うことこそが、その無毒無害の思いを毒、害あるものに変えてしまっているのです。
ですから、出てきた思いはそのままにしていてください。
思いが沸いても傷つかないことを体験すればもう二度とその思いに傷つくことはありません。
ご精進ください。
さらに深めたい方は当山の坐禅会にお越しください。
思いが生じても影響を受けない心、思いに振り回されなくなる心、悟りのこころとはどういう心かが具体的に感じられると思います。
合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

すごい…。
本当にそう思えたら悩みなんてなくなります。
少し遠いけど、
長野から行くなんて変でしょうか。
座禅会
行きたいので、よろしくお願いいたします

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