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法蔵菩薩はいつ阿弥陀如来になったのか?

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真宗大谷派の門徒です。
仏教に興味があります

法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか?

人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか?

それと

すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。
救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 8件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

如来我となりて我を救いたもう。(曽我量深)

真宗大谷派の僧侶です。ご質問について一僧侶として考えてみました(宗派見解ではありません)。
ご質問は概観すると先の質問の方がメインに感じますが、実は後者がメインですね。

つまり、「救われている」自覚がないため、法蔵菩薩はいつ如来になったのか?どうやってなったのか?みんなが救われたはずなのに私はどうなのか?
といった疑問・不安が生まれてしまうということでしょう。

仏説阿弥陀経には阿弥陀仏は仏と成って十劫(我々の思いはかることのできないほどの長い時間)の時が経過したとありますが、そもそも阿弥陀とはどのような存在でしょうか?

我々は木像や絵像を礼拝する中でどうしても何か阿弥陀仏という大いなる存在(いわゆる神のような)が実在し、目の前に現れ救ってくれるような感覚に陥りますが果たしてそうなのでしょうか。
どこかに如来の姿を探して、それにすがって助けてもらうというのが浄土真宗でしょうか?

私が思うのは阿弥陀如来は私(とんとん様)を離れてどこにもいないということです。
そしてその救いとは何かいいことを運んできてくれる、すなわち我が欲望を叶えてくれるという救いではなく、いついかなる時も共にいてくださるという救いです。

嬉しい時は嬉しいままに、悲しい時は悲しいままに、「あるがまま」

だから如来です。「如(あるがまま)」の世界からあるがままでおれず苦しむ私を救いに来たのです。私が阿弥陀如来なわけではないが、わたしを離れて阿弥陀如来があるわけでもない。
「一如不二」~二つにあらず、一つの如しの世界です。
この世界において自己が明らかになる時が阿弥陀が明らかになる時であり、救われる時です。

今、阿弥陀如来を疑う自己が明らかになったところに阿弥陀如来がはたらいています。日々悩む心に、ささやかな幸せを感じるところに、常に阿弥陀如来がはたらいているのです。

それが如来(あるがまま)という真理です。真理が南無阿弥陀仏という言葉となって今私に届いているのです。
そのはたらきは無量の光や無量の寿や、親や、鏡と様々に例えられますが私(私を明らかにするはたらき)をはなれて阿弥陀如来はいません。自覚するしない、信じる信じないにかかわらず真理ははたらいています。それを阿弥陀と讃えて(称えて)いるのです。

それを知った時、気づいた時、法蔵菩薩の物語は真実となり前者のような問題はなくなります。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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法蔵菩薩はまだ成仏していません

私の師僧(東京 因速寺住職 武田定光師)は、「法蔵菩薩はまだ成仏していません」といいます。

48願は、「もし一人も残らず救うことができないならば、私は成仏しません」となっています。
現に、今、私自身含め、苦しんでいる人がたくさんいます。

ですから、法蔵菩薩が成仏して、存在しない世界ではないのです。

浄土教の「因果」には独特の時間感覚があります。
ヒヨコが大きくなってニワトリになるような、時間的前後関係をもった、因果関係では、法蔵菩薩と阿弥陀如来の関係は、説明できないのです。

すでに成仏している、つまり果位の阿弥陀如来と、まだ成仏していない因位の法蔵菩薩が同時に重なってこの世界に存在しているというような、因位と果位に対するとらえかたをします。
思うがままにひとりも残さず救済する、果位の阿弥陀如来のはたらきと、現に苦しんでいる人がいるから、誓願を起こす、因位の法蔵菩薩のはたらきが、同時に存在しなければ、救いの実動性がなくなってしまうからです。

この、苦悩あふれる世界のすべての衆生をひとり残らず救いたいという、因位の法蔵の誓願と、すでに成仏した阿弥陀の果位の摂化が両立するところに、真宗の救いの実動性があります。

死んだあとのこと、ではなく、今、ここ、私。
いつでも、どこでも、誰でもの救いです。

ただ、お経は通常の人間が理解できる言語でかかれますから、一見すると、通常の時間感覚、前後関係の因果関係で書いてあるように見えます。
(「実時と仮時」で検索なさってみてください)
はるか昔、法蔵菩薩は、五劫思惟して誓願をたて、兆載永劫のあいだ修行をして、のちに成仏した。
成仏してから、十劫がたった。
このような表現をとっています。
しかし、この五劫、兆載永劫、十劫という、途方もない大きな物理量で表現されているのは、物理量の大きさそのものではないのです。
法蔵の誓願の重さ、阿弥陀の摂化の重さを、象徴しているのです。
人間には理解不能な、真実の深さを、そのまま言語で表現することは不可能です。
真実の深さが、人間の理解を超えていることを、非常に長い時間という「量」にたとえ、比喩表現で伝えているのです。
ですから、物理量の大きさとして、比喩的に、「質」の計り知れない深さを、「途方もない大きな物理量」で表現しているのです。

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おきもち

浄土真宗、真宗大谷派です。
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私としては、お礼

浄土宗ですが、せっかくの御機会なので、私個人の解釈としては。
如来とは仏のことであり、仏とは覚りに至った人のことです。ですから、阿弥陀仏が仏となった、あるいは法蔵菩薩が覚りに至った時というのは、誰かを救ったり何かをしたりした時ではなく、永きにわたる修行により自ずから目覚めた感覚があったのではないでしょうか。
お釈迦さまが覚りに至ったように。
もしくは、作ることを望んでいた極楽浄土を作れると確信した時、あるいは完成した時なのかもしれません。
阿弥陀仏に成られたのは、今から十劫も昔のことです。物理的には現宇宙が生まれたビッグバンよりも昔のことになります。はるか昔からずっと生きとし生けるものを見守って、育んでこられたのです。その為、無量光仏、無量寿仏とも呼ばれるのです。
そして、あなたのことも見守り、育んでくれているのです。
あなたが生まれる前から、あなたが往生した後までも。ずっと一緒です。
今は自覚がなくても構いません。
見守られている事を知っただけでいいのです。
親の心子知らず、とよく言いますよね。
阿弥陀仏は親、私達はその子供なのです。
私達に自覚がなくても、阿弥陀仏は救ってくれるのです。
手の掛かる(信心の無い)子供ほど可愛い、と思ってくださるのですよ。
南無阿弥陀仏

お礼
真宗のお坊さん方の解釈を知る機会を頂き大変勉強になりました。ご質問ありがとうございます。
ところで、大無量寿経にはお釈迦様が阿難様に、阿弥陀仏となって十劫たった、としか時期については書かれていないので、どう私達が解釈するかによるのだと思います。あなたが納得できる解釈で良いと思いますよ。
また、「◯◯しないと仏に成らない」の誓願は48もあり、一つ一つ説明するスペースが無いので省きますが、「すべての人を救わないと仏に成らない」というものでは無く、「極楽浄土を望む人が極楽浄土に行けないようなら仏に成らない」というような誓願であります。(私の解釈としては)
なので今現在、阿弥陀仏と呼ばれる仏様がおられ、その名は多くの人達に知られている、つまり、その誓願は既に成就し仏になっている、だから、極楽浄土を望む人は必ず極楽浄土に行ける、と解釈しています。
(あくまで浄土宗的にはです。参考まで。)

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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私の個人的なお味わいです。

とんとん様

法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所

法蔵
おっしょう様、全ての煩悩具足の悪衆生、たすくるお手立て、どうかこの法蔵に聞かせて下さいませんか。おっしょうさま。

世自在王仏
なんと、法蔵様、そなたはまだ菩薩の身、煩悩具足の一切衆生を救うやらお済度するやら、本気で仰るのですか?

見てもご覧なさい、そのようなことは、もう沢山の仏様方々が諦められたことでございますぞよ。(覩見諸仏浄土因)
お悟りを得て、浄土に生まれるには、どの仏様方も、最低でもこれくらいの行は修めて貰わねば、ここまでの功徳は積んで貰わねばと、それぞれに条件というものがありますぞよな。

それをあなた、無条件に全ての衆生を救いたいというのは、、本当に本気ですか?

法蔵
はい、私は心底、本当に本気でございます。

世自在王仏
そうですか、、
それほどに助けたい助けたいと言うのであれば、世界中の海の水を、この小さな升で、一杯二杯、三杯四杯と、全て汲み干して、一人でやるのですよ。
そしたら一番深い所に宝の玉があるから、それを素手で、手を濡らさずに、すくいとるほどの力がそなたにあるのであれば、煩悩具足の悪衆生を助けることが出来るでしょう。
どうですか?

法蔵
それほど助けてやりたくば、四大の海の水をば、只の一人で汲み干して、その底にあります無上の報酬を、手を濡らさずにすくいとることが出来るなら、煩悩具足の悪衆生、たすくることが出来るぞよと、
仰せられたその時は、嬉しかったよこれ衆生、嬉しかったよ、これ衆生。

一願建てては衆生の為、一行励んでも衆生の為、
衆生の為ならこの弥陀は、凍る氷も凍らば凍れ、逆巻く浪も立てば立て、
八寒紅蓮の氷の中も、灼熱無間の焔の中も、
衆生一人、弥陀一人、実の子じゃもの親じゃもの、
八幡由じゅん燃え盛る焔の中に飛び込んで、
血煙あげて哭くものを、抱いてかかえて摂取して、
浄土の蓮の台座に連れ上がり、にっこり笑う顔見るまでは、

決して退きはしませんぞよ、決して退きはしませんぞよ。

親と子、私と阿弥陀さん、色んな立場に置き換えて味おうて頂けましたら幸いです。

法蔵様から阿弥陀様になられたのがいつなのかも大切ですが、そのお話の中から阿弥陀様のお心を今私が頂くことが肝要かと思います。
悪衆生、一切衆生とは、どこかの誰かではなく、この私一人のことでございます。

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おきもち

浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
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不知

法蔵菩薩さまが、いつ成道されて如来のなったのか、
知る由もないし、知っても仕方がない。
何故なら、誓願を因位として、成就を果位とするなら、
それは輪廻という無限世界の活動ですから、
はじめもないし、終りもない。
従って、いま、まさに如来となられたのかもしれないし、
未来永劫、如来になることはでいないのかもしれない。

自家充足を知りて、天命に順じ、天恩に報ずるの心 是自己なり。

如何に現生正定聚の心境に至るのか、
私は、常に自己に立ち返り、そのことを専一に考えております。
信心を先とすべきであると、思います。

追伸

清沢満之先生の我が信念という
書籍にある一節を転載です。

私はいま満たされている、
いま生かされている自分に従い、
弥陀如来に感謝する。
そして我が道を堂々と歩んでいく。

意訳ですがこのように
私は解釈しています。

法蔵菩薩が菩薩のままだろうと、
阿弥陀如来になろうと、
あなたの生活に変わりはない
はずです。
考えたら疑問を持つのはよろしいが、
囚われないで欲しいと、
考えたので、飛び入り参加しまでのこと。

愚問であるとかないとか、
聞くこと自体が愚問だと思います。
聞きたいことは聞いたらいいんです。

私の思う信心とは大それたものではありません。難しいものでもありません。だからこそ、仏恩を感謝して、
阿弥陀さまのお救いがたったいま、
このままの私にあると、
いう信念です。
信心は賜るもので、私が計らうものではないと思うんです。
だから一石を投じてみました。
ごめんなさい。
わかりづらい文章で失礼しました。

再追

天命を尽くすとは、全て阿弥陀さまに
お任せした上で、生き抜くこと、生き切ること。天命に順ずるとは、いまのまま。ありのままの自分でいいんだよ。と私は味あわせていただきます。
いずれにせよ、阿弥陀さまの御手に
ござる。お粗末。合掌。

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おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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菩薩と如来の関係性

とんとん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

菩薩と如来の関係性には、大きく分けて二通りあるものだと考えられます。

一つは、三身(法身・報身・応身)の具備したる如来としての在り方における「はたらき」としての報身の菩薩として顕現なさられておられる場合。但し、凡夫が逢いまみえることはできず、ある一定の聖者の段階となれば邂逅でき、教化を受けられることがあります。

つまり、阿弥陀如来の報身として、「はたらき」を持っておられる存在としての菩薩と言える場合が一つ。

もう一つは、まだ、如来となられておられない修行段階として、悟りへ向けて精進なさられておられる存在としての菩薩の段階。

三身のことや、悟りへ向けて精進なさられている菩薩の境地のことについては、「十地経」(華厳経・十地品)に詳しく記述されています。

前者の場合であれば、既に悟られておられる存在として、後者の場合であれば、これから悟られることになる存在として、と言えるのではないだろうかと存じます。

また、後者の場合であれば、悟りへと至るための智慧と福徳の資糧が円満に調って、所知障を断滅し終えた段階にて、如来となられると言えるのではないだろうかと存じます。

但し、色々とお聞きのことにおける浄土真宗での解釈については、龍樹大師の著作として伝わる(但し、実際に龍樹大師の著作であるのかどうかは疑わしいところも・・)「十地経」の注釈書、「十住毘婆沙論」の「易行品」についての親鸞聖人の関連解釈にあたられるのが、より正確な理解につながるのではないだろうかと思われます。

このように言っておきながらも、実は、「龍樹の仏教」(十住毘婆沙論)・ちくま学芸文庫を持っているのですが、龍樹大師真作ではないと疑っており、いまだ読めておりません・・すみません。早速に「易行品」のところだけでも読んでみまして、新たな知見がございましたら、また補足追記させて頂きます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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いつなったのか。

今でしょ。

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おきもち

石田 智秀 (ちしゅー)
お寄せくださった質問について考えさせていただくことで、必ず回答できる場合ば...
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一人前

私は現在43歳 

いい大人ではありますが、妻や職場の保育士さんからは、もう少しちゃんと大人としての振る舞いをしてほしいと思われているかもしれません。

資格があっても一人前と認められるかどうかは別の話。
患者が治らなければヤブ医者といわれるように、
衆生が救われなければ如来として一人前とはいえない。

衆生救済が完了しなきゃ菩薩が如来になれないというより、如来になったけど衆生を救わなきゃ自分は一人前といえない。

なので、仏になったのは53段の階段を昇りきったとき。一人前の阿弥陀仏と自覚するのは衆生を救いきったとき。
という扱いでいます。

++++
お礼を受けて少し文章に手をくわえました
自己評価という言葉は、ニュアンスがずれるかもしれないので直しました。

南無法蔵菩薩でなく、
南無阿弥陀仏。
その上での還相回向。
と私は受け取っています。

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おきもち

泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
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質問者からのお礼

聖章様
長文ありがとうございます<(_ _)>
なるほど、目覚めた時に如来になったのですか。確かに願う国が完成した時にと言うのもあるかもしれませんね。
如来になったタイミングは大無量寿経や他の経典等などは書かれてないのでしょうか?

私は「○○が出来ないと如来にならない」と自ら誓いをおたてになったので、単純に何時なんだろか?と思ってました。
それにしても想像絶する誓いで感心します。
極楽西方浄土に行って覚らしてもらいな~
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏~
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

吉武文法様
懇切丁寧なお返事を頂きありがとうございます<(_ _)>
鋭いお察し、ずぼしですね(笑)
確かに後者が目当てかもしれません。
仏教は生きとし生けるもの救いの教え、仏になる教えと思ってます。
覚る世界、心が穏やかになる世界に憧れてる甘ちゃんな自分です。
ただ、煩悩を抱えて行くしかない人間を救ってくれる親鸞聖人の教えや生き方に共感をしたのを小学校の歴史の勉強で覚えてます。
欲や自我にどっぷりつかった自分には、はっきりと有り難さを感じるには時間が必要だと正直思ってます。
でも、「阿弥陀さまに包まれて生きている」と思いながら生きていると多少ではありましすが気持ちは楽になります
投稿してお返事を頂け、よかったと思います
南無阿弥陀仏~、南無阿弥陀仏~
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

佐藤精徹様
直球のご返答、誠にありがとうございます<(_ _)>

「なぜ? からはじまる歎異」の著者、武田定光様のお弟子様でしたのですね。光栄でございます。何度も武田定光様のYouTubeの法話を聞いて「なぜ? からはじまる歎異」を購入して読みした。
法話も普通の方とはひと味違う解釈と問いかけが面白いと感じた印象がありました。

佐藤精徹様の解説で縁落ちた感があります。
法蔵菩薩は仏に成っておらず、進行形であると解釈するとすれば合点します。
やっぱり仏教は面白いです。
知識の浅い自分に、大きな世界感を示したり、人のある姿を教えてくれたり、楽しましてくれる仏教が好きです。
また、武田様のYouTubeを聞いてみます
ありがとう御座います
南無阿弥陀仏

佐藤精徹様
直球のご返答、誠にありがとうございます<(_ _)>

「なぜ? からはじまる歎異」の著者、武田定光様のお弟子様でしたのですね。光栄でございます。何度も武田定光様のYouTubeの法話を聞いて「なぜ? からはじまる歎異」を購入して読みした。
法話も普通の方とはひと味違う解釈と問いかけが面白いと感じた印象がありました。

佐藤精徹様の解説で縁落ちた感があります。
法蔵菩薩は仏に成っておらず、進行形であると解釈するとすれば合点します。
やっぱり仏教は面白いです。
知識の浅い自分に、大きな世界感を示したり、人のある姿を教えてくれたり、楽しましてくれる仏教が好きです。
また、武田様のYouTubeを聞いてみます
ありがとう御座います
南無阿弥陀仏

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
三浦康昭様
ご返答ありがとう御座います。
正直、私は困惑します。
その「信心」がわからない愚か者です。
それと語学力が乏しく仏教用語やお説きになる言葉は現代語でないのでますます難解になってしまいます。
法蔵菩薩が如来になるタイミングは何時なんだろという問いかけは愚問なんでしょうか

こんな愚かな私でも救って頂ける阿弥陀如来にすがるしかないのです
南無阿弥陀仏~南無阿弥陀仏~
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

三浦康昭様

追伸ありがとう御座います。
「私はいま満たされている、
いま生かされている自分に従い、
弥陀如来に感謝する。
そして我が道を堂々と歩んでいく」
このお言葉、「天命に案じて人事を尽くす」
に似ていると思いました。聴聞した時に知りました。またこのお言葉はどちらも清沢満之様のお言葉だったんですね。
三浦様が言われる意図が少し見えてきたと思いました。
如来様がついておられるから大丈夫!なす事を心配する事なく有難く生きよ
と味あわせて頂きます
追伸ありがとうございます
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏<(_ _)>
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釋 慧心様
長文ありがとうございます<(_ _)>
文章の中でYouTube法話で聞いた話しもありました。
法蔵菩薩の志しを伺えてよかったです。
こんな話しがあったので驚きで‥‥
本当、仏教って面白く考えさせてくれてありがたいです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
川口英俊様
俗世間に生きてる私には、聞くとない解説をして頂きありがとうございます<(_ _)>
僧侶という生業は、この様な事まで心得ているのですね。感服いたしている次第です。
頂いたご解説を何度か読みながら、仏教に触れていきたいと思います。
お時間を頂いてありがとうございます<(_ _)>
南無阿弥陀仏~南無阿弥陀仏~
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
石田 智秀様
ズッバット回答ありがとうございます(笑)
こんな、鮮やかな回答もあるんですね
これらのご活躍をお祈りします
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

泰庵様

こちらでも、ご回答ありがとうございます。
一人前と自己評価とありましたが、法蔵菩薩の自身の自己評価と捉えればよろしいのでしょうか?
今回、この場をお借りして皆様方からお話しを伺えて本当によかったと思います。
本で読んだり、YouTubeの法話を聞いてもやはり自分の狭い物差しで受け入れてました。
ここで、問いをすることにより僧侶の方々の話しを伺えて阿弥陀如来や法蔵菩薩等の思いが広がって有難く思っております。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

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