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なぜ人は人を殺してはいけないのか。餓死による自殺について。

回答数回答 3
有り難し有り難し 32

 社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。
 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。
 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。
 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。
 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。
 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。
 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。

 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。
 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

追記10月3日。殺す必要も自殺の必要もない心境の方が幸せ

仏教は、悩み苦しみを消したり制御したりするための教えです。
自分の悩み苦しみや、他者の悩み苦しみをなくしたり減らしたりするためのテクニックです。
殺すことは、当然、殺される側の悩み苦しみの原因になります。
また、他人を殺そうとする人には、かなり強い怒りや欲望があります。
怒りや欲望は悩み苦しみの原因となる煩悩です。
悩み苦しみを減らしたいなら、煩悩を制御する訓練を積む方が良いのです。
殺さない訓練は、煩悩をなくしたり減らしたりするために有効なトレーニング方法なので、悩み苦しみを減らしたい人は、殺さない修行をした方が効果的なのです。
殺さないことは、手段なのです。
仏教では輪廻転生を前提に考えます。
自殺するほどの「嫌だ」という感情は、煩悩なのです。
煩悩のままに自殺しても、また生まれかわって悩み苦しむだけです。
煩悩をなくす訓練が必要です。
そのためには、自殺しないことも修行になります。
餓死による自殺でも、結局、なぜ自殺したいのか?その動機に欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩があると、来世での悩み苦しみにつながります。
もっと単純に言うと、誰かを殺したり自殺したりしなければならない人生は不幸でしょう。おもしろくないでしょう。
仏教が目指すのは、殺す必要も自殺する必要もない、お気楽極楽で平安な心なのです。

追記10月3日
殺人鬼が、悩み苦しみから解放されたいと願うようになることを、僧侶としては望みます。
しかし、人は必ず死にます。
殺人鬼に殺される場合もあれば、何かのウイルスに殺される場合もあれば、自然災害に殺される場合もあります。
「うつ」で自殺してしまう(心の病気に殺される)場合もあります。
殺され方によって幸・不幸はないのだ、と思えるように、仏教があるのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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人という漢字は二本の棒がお互いに支え合った形をしています。これは、人はお互いに支え合うからです。
昔テレビドラマで先生役の人が生徒に言ってました。
本当の字源は違いますが、とてもいい話だと思いました。
人はお互いに支え合って、助け合って生きなければならないのです。

人を殺すことは、自分も殺すことです。
また、殺された人が支えている他の人も殺すことになり、殺した人が支えている他の人も殺すことになり、さらにその他の人が支えている人を…と次々に連鎖していくのです。
最後には誰一人として生きていないでしょう。

人が存在する為には、支え合い助け合うことが必要なのです。

殺人鬼が人を殺すのは、助け合う環境に恵まれず、人に絶望したからだと思います。
また、あるいは、戦争やテロのように権力者に洗脳され、敵を殺すことは仲間を守ること、仲間との助け合いだ、と思い込んでいる場合もあるでしょう。

前者の場合は、殺人鬼を生まない環境、つまり助け合う環境を作ることが大切だと思います。
環境に恵まれないと、誰でも罪を犯すのです。

後者の場合も、その権力者の生まれた原因、発端を探っていけば、結局は前者と同じ原因から始まったのではないでしょうか。
何かがあって他人と助け合うことに絶望したのだと思います。
怒りや恨みは炎のように周囲に広がっていきます。その行き着く先がテロや戦争なのだと思います。
そして後に残るのは焼け野原だけです。

生きづらい世の中ではありますが、少しでも日常生活、仕事、社会、様々なところで、助け合う環境を作りたいですね。

即身成仏については否定はしませんが、私としては推奨できません。
餓死で死を選ぶことは、助け合うことができなくなります。
たとえ誰も自分を支えてくれなくても、誰かを支えてあげたい、そう思いましょう。
誰かを支えることは、支えられることでもあるのです。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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自殺のカルマについて

しんしょう様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

自殺につきましては、大きく三つの業(カルマ)の結果について考えることができるのではないかと存じます。

一つは、善き動機としての善き行為による善き結果として。

一つは、悪い動機としての悪い行為による悪い結果として。

もう一つは、善いでもなく悪いでもない中性なる動機としての善いでもなく悪いでもない中性なる行為による善いでもなく悪いでもない中性なる結果として。

その内実においてまず重要となるのは、「無明(根本的無知)・煩悩」によるものであるのかどうかというところとなります。

無明・煩悩によるものであれば、当然に迷い苦しみの原因となっていく「悪業」となってしまう可能性は高くなります。

その無明・煩悩によらないものであれば、中性に。

では、善業となる場合・・これは非常に判断が難しいのですが、例えば、大いなる慈悲の心や菩提心(悟りへ向けた心)を動機としての、無明や煩悩によらない、純粋な利他心により他を助けるような善行為となる場合などが考えられます。

中性の場合も、その内実の動機を実際に推し量るのも難しいところがありますが、例えば、どうにもやむを得ない事情による安楽死、尊厳死などが考えられますかね・・

とにかく、大きく分かれる一つの判断基準として、「無明(根本的無知)・煩悩」によるものか、そうでないのか、ここを少しご検討を頂けましたらと存じます。

仏教の基本として、この迷い苦しみ(輪廻)から解放されるためには、しっかりと悪い行いを慎み、善い行いに努め励みて、心を浄らかにしていくことが求められるものとなって参ります。

是非、その方法論がたくさん説かれております仏教の修習を、これからも進めていって頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

 回答ありがとうございます。本来ここには「お礼のコメント」を書くべきで、以下に記す文章は不適切でかつ、わざわざ回答をいただいた願誉浄史様に対して失礼であることを承知で記すことにします。なお、以下の記述は悪意を意図しているわけでは決してありません。

 願誉浄史様は、「人が人を殺してはいけない」理由を、簡単に言うと「殺す必要がないし、殺さない方が気楽でいいから」と仰り、そういう風に僕は汲み取りました。その回答は真実であると僕も賛同します。しかし、僕はそのような回答を望んではいませんでした。恐らくその回答で、殺人鬼が殺人を犯す前に殺人を止めることはできません。彼らは「絶対に奴を生かしてはならない、奴を殺さなければ俺は生きた心地がしない」という風に思うことでありましょう。僕は殺人鬼から、「この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在」を守りたかったのです。
 このサイト内で自殺に関するお坊さんの回答で、僕が見つけた殺人鬼から人を守り得る回答を引用します。「なぜ人は人を殺してはいけないのか」それは、人の生命について、「私達の生命は様々なものごとや人々によって与えられ育まれてきたものですから、私の生命は自分のもののようで実は自分のものではない」からです。この回答を殺人鬼が殺人を犯す前に説くことによって、全ての人を救うことはできませんが、10人に1人くらいは救うことができるであろうと思います。

 そして飢餓による自殺に関して。これは即身仏様に非常に失礼だと承知で以下の記述を残します。僕は餓死による自殺を、「煩悩に起因する自殺」という意味ではなく、「即身成仏の為の自殺」という意味を意図して使いました。即身成仏が自殺かどうかは議論の余地が残りますが、即身仏様は苦行をなさる過程で目の前にマーラが降魔なさる(マーラが卑しい存在ではありますが、僕は、人にとっては尊く、ありがたいと思うべき存在であると考えているため尊敬語を使います。)ことはなかったのか、僕は甚だ疑問に思うわけであります。僕は煩悩を抱え、それに縛られているため、即身仏様がなさった苦行を想像するだけでも「ああやりたくない」と感じる自分がおります。反対に「即身成仏したい」という自らの内に秘める意識もあります。僕の即身仏様に対して理解が足りないため、即身成仏に関しては、また今度の機会にお坊様に伺うことにすることにします。

 最後に、願誉浄史様、非常に丁寧な回答をいただき有難うございました。願誉浄史様に対して卑しく、不躾なコメントを残すこと、お赦しください。僕は、仏教思想について、ネットサーフィンでつまみつまみ見るだけで、仏教思想を24時間365日本当の意味で学ぶことができないことをひどく残念に思います。また、僕が意図することを僕の貧困な国語力によってお坊様に伝えきれないことを、お赦しください。

追記10/3

>願誉浄史様
 わざわざ補足を書いていただき有難うございます。人の死の形は人それぞれではありますが、人の死の形に善し悪しは存在しません。だからこそ、この世の全ての死人は、なんらかの形で救われることができるのでありましょう。慈愛に満ち溢れる優しい回答を有難うございます。
 この現代の日本社会において、確認されているだけで毎年3万人もの人が、自殺によって亡くなられている現実があります。僕はこの悲しいことを完全になくすことができるとは到底思いません。しかし、少しでもこの悲しい出来事が減るように、この人生をかけて尽力し、その手助けができれば、と考えております。

>聖章様
 非常に分かりやすく、納得のいく回答を有難うございます。親友に、「なぜ人は人を殺してはいけないのか」という問いに対して答えるとき、聖章様の回答をそっくりそのまま示させていただきました。感服の至りでございます。
 僭越ながら、自称哲学者としての僕の意見を述べさせていただきます。助け合い、支え合わなければ生きていくことができない人と、孤独に生きることができる人とがいるのだと思います。僕は子供の頃、父親から真実の愛情に恵まれませんでした。それが僕を真実に孤独だと強烈に実感させる原因を作ったのではないか、と考えています。聖章様の「たとえ誰も自分を支えてくれなくても、誰かを支えてあげたい、そう思いましょう」という言葉、大変素晴らしい言葉だと身をもって感じております。真実に孤独な人は、誰かを支え、助けなくとも生きてゆくことができるのだと信じております。しかしながら、誰かを助ける、つまり、マーラに降伏した偽善ではない真実の「善」を為す、これを僕自身が生きる糧とし、生を強烈に実感していこうと思います。そして、「生」をこの身体に授かることができたことに感謝の念を持ち続け、精進して参りたいと思います。

 即身成仏に関しまして、ネットで調べたところ、即身仏様が成仏なさられた背景に、天災や飢饉、疫病についての祈祷がある、と拝見しました。科学が発達した現代社会に、この即身成仏は不釣り合いであると感じました。そして、即身仏様方には、感服の極み、この授かりし我が御心に至れりでございます。この現代社会を形作った科学の進歩に寄与した全ての科学者に対して、深い敬意と感謝の念を感じます。この御時世において、僕のこの授かりし人生を、即身是仏となり、真実の「善」を為すことに、尽力して参りたいと感じております。

>川口英俊様
 前述した聖章様へのお礼のコメントと被るかと思います。主に3段落目を参照していただければ幸いです。真実の「善」とは、マーラに降伏した独善や偽善というような行いではないのだと信じております。
 話はそれますが、「合掌」という言葉について、僕は小学校の頃、給食の時間に「合掌」をなんとなく使っていましたが、その本来の真意が分かった気がします。wikipediaの「合掌」のページを拝見しただけではありますが、大変素晴らしい心がけだと思います。以後使わせていただこうと存じます。

>このサイト上の全てのお坊様
 この度は我が授かりし御心に、考える機会を与えてくださったこと、深く敬意を表し、感謝いたします。僕の持つ語彙力が貧困で大変な長文となってしまったこと、お赦しください。もし、「お前は間違っている!」と仰るのであれば、お説教ください。重ねてにはなりますが、お坊様に対し、深い感謝を申し上げます。

合掌

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