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子育てをする上での心持ち

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初めて質問させていただきます。
娘が4月から幼稚園に通い始めました。
2年保育でノンビリ家で育てていたため、周りの子と比べるとできない事もあったりします。
楽しかったと帰ってくるので、それはせめてもの救いですが…
そして、幼稚園から度々普段の様子を教えていただくと、苦手な事が多いなぁ…と落ち込んでしまいます。

もちろん先生も責めるわけではなく、子どものペースに合わせてくれるので、考え過ぎかもしれないですが、度々、ダメな母親だと落ち込んでしまい、暗くなってしまいます。

子どもの前では暗い部分は見せないので、自分の気持ちをどこに持っていけばいいやら…と考えてしまいます。

どういう心持ちで育児をしたら良いのかわからなくなってしまいました。

長文失礼いたしました。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうしても比較してしまいますよね。

よその子と比べたり、兄弟姉妹間で比べたり・・・。子ども本人は全く気にしていなくて、気に病むのは親ばかり・・・。成長度合いは人それぞれなのは、頭では分かっているのに、心はザワザワしてしまいます。

私も育児暦16年ですが、そのザワザワは治まりません。一人目二人目の小さい頃は頑張り過ぎて、可愛がった記憶があまりありません。でも、親がしてあげられることなんて少しなんだろうなぁってことが分かってきてから、少しは余裕ができました。

あいさんのお子さまは今が可愛い盛りですよね。どうぞ周りは気にせず、存分に可愛がってあげてください。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

子供は育てるのではなく、育つもの。

子供に自分の願望を押し付けないことです。
こうしたほうがよいだろう、こうしたほうがよいだろう、というのは大体、大人のエゴである事が多いものです。
その自分のエゴ、自分ルールに忠実でないと、面白くない、というような事だと考えてみましょう。
子供は、自分が産んだ子供であっても、❝自分の❞ではありません。
内では、独立存在として、尊重をしています。
束縛すれば、反発する。
親のルールを押し付ければ、怒りを買う。
押さえつけすぎれば、自分に嘘をつく子になる。
放任しすぎれば、我欲が増す。
イイ子であるように、良い子であるように、、、。
そのイイ子、良い子って、ひょっとすると「親にとって都合のイイ子、都合の良い子」かもしれません。
だから子供とは「ともだち」になる事が良いと思っています。
過干渉になり過ぎず、放任しすぎず。
子育てにおいてありがちな過ちは、いつまでたっても親が子供をどうこうしようという気持ちがある事です。
子供を「わたしの」「じぶんの」という意識を持ちすぎて、子供があたかも自分の所有物であるかのように錯覚をしてしまうのが世の中の多くの親御さんです。
私は、師から「盆栽のように育てるな」という訓戒を頂き、その通りだなあと感じております。
人生どう転んだって、その子の独自の人生です。
親の幸せの理想像を押し付けないことです。
私は、子供の最高の教育は、今後、どんなに苦しいことがあっても、平気でいられることです。
仏教とは、それです。私がここや坐禅会でお伝えしている事も、それです。
今の時点ではお子さんには分かりません。だからこそ、親であるあなたが、それを知っておく必要はあります。必要性を感じましたら、坐禅会にお越しください。
外の事に心を奪われず、内なる思いに影響を受けない心をお伝えいたします。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

子供に親も育てられている

あい様
拙僧も三人の子育て真っ最中です。とはいえ上はもう高校生ですが・・・
驚くべきは三兄弟、三者三様かなり性格が異なります。特に年子の男子二人がこうも違うのか?
と、戸惑う事は今でもあります。

あい様の娘さんは、初めて親元を離れる時間、幼稚園という集団生活の中に入ったのです。娘さん本人も戸惑い・喜びがいろいろあって当然です。
親として他のお子さんと比較し不安になるのは、仕方ない事かも知れませんが、娘さんが楽しく帰ってくるんですから何の問題も無いと思います。
あい様としては「今日幼稚園で何した?」と毎日笑顔で聞いてあげることが一番大事。
お子様の前では、不安な顔は見せず共に笑い、娘さんが悲しんでいる時は共に悲しみ〔子供と同じ目線〕で優しく包み込んで下さい。
「釈迦弥陀は慈悲の父母」という言葉がありますが、子供にとって母は自分を包む慈悲の存在(残念ながら父親にそこまでの信頼は無いかな!?)。
あい様自身も、お子さんに親になるため育てられていると思って育児ガンバって下さい。
不安があれば、またご相談くださいネ!

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おきもち

石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしております。 過去の経験から、僧侶が聴聞の方々に一方的に話すだけの法話スタイルに疑問を感じ、悩んでる人・苦しんでいる人・勿論そうではないチョット仏教に興味がある人のお話しを聞き、対話する中でより良い方向を一緒に探す事を重要視しています。 お気軽にご相談下さい。

大丈夫ですよ

はじめまして!あいさん
この度はご質問ありがとうございます
このご縁に感謝致します
私の考えを述べさせていただきます

私も現在子育て中
また普段の活動にて多くのママさんとのご縁をいただいております
大変多い悩みであると思います

今はなにより園を楽しんでいる、それだけでいいのではないですか

そしてあいさんは決してダメではないですよ
そんな思いになったときはぜひ目の前の子供さんを見てください
なによりこうして育っているのはあいさんが頑張っているからですよ
大丈夫!ぜひ自信をもって子供さんとともに歩んでください

合掌

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有り難し
おきもち

人の寄り添える僧侶をテーマに活動中! 僧侶、理学療法士、心理カウンセラー  それぞれの立場を活かして 現在における僧侶像を確立するべく こころ・からだから笑顔になれる人を増やすべく仏教用語から由来して「わげんせ」という活動を通して、日々模索しながら動いております ※お坊さん回答の中に「鈴木光浄」がおりますが当初諸事情がございまして私が回答したものでございます。そちらもあわせてご参照ください

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