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無分別をどう生かしたらいいのか

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分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。

ああその通りだなと思うのですが。

分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。
この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心を観察することから始めてみてはどうでしょうか

無分別になれている境地は、自我を捨てた、悟りの境地ということになるでしょう。

あれが欲しい、これが欲しい、これは好きだ、嫌いだ。損だ得だと考えないように押さえつけている状態は無分別ではないと考えます。

まずは、今の自分の心がどのような状態になっているのか観察してみることだと思います。
イライラしているなあ。
今日のご飯は私が嫌いだと感じるものだなあ。
今日はなんだかワクワクしているようだ。など

それらの心はそのままに、追求しないということではないでしょうか。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

無分別智は仏様だけが持っているものです

無分別は理論で考えれば分からなくもないのですが、悟られた仏様の智慧なので私が持つことはできません。
私は「将来必ずそんな仏様になれる」とよろこんで信仰させて頂くことが今の私の精一杯かと思っています。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

自分と他人の悩み苦しみをなくすために使う

仏教の目的は、悩み苦しみを消したり制御したりすることです。
そのためには、煩悩を消したり制御したりするのが良いと、お釈迦様は発見しました。
煩悩を消したり制御したりするためには、戒(生活習慣)・定(精神統一)・慧(観察:智慧)の3つの修行があります。
無分別は、定(精神統一)と慧(観察)に関係しています。痴(愚かさ)の煩悩を消したり制御したりする修行が無分別につながる。
本当に無分別の境地になるには、深い精神統一が必要なので、我々には難しいかも。
しかし、無分別を意識して物事を観察することはできるでしょう。
「法は無我・空である」と観察するのです。
法(心・頭で考えたこと)は無我(実体のない)で空(夢幻みたいなもの)であり、
したがって、頭で考えた概念・分別・差別は、執着に値しない、と意識する。
たとえば、他人を苦しめる差別について、人間が頭で考えた差別は執着に値しない、それよりも人の苦しみを減らす方が大切(仏教的)だ、と意識するのが善いのです。
日常生活で使える分別・差別は多いけど、人の苦しみを増やすような分別・差別には注意する。
青信号ならある程度安全、赤信号ならかなりの確率で危険だとかいう分別は、使うほうがよい。
青信号も「空」だ、と、いちいち一旦停止してきっちり安全確認していたら、後続車両の悩み苦しみを増やします。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

厳密には

ご質問より
「分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。
この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?」

これは、厳密には、分別の状態のなのですよ。
自分が「無分別である」という、分別上から自己を眺めた分別状態です。

本当の無分別は、自分の判断・解釈が介入しない、瞑想・禅定状態、自我意識をさしはさまないです。
その状態にある時には、良いも悪いも、どう生かしたらよいか、という事もありませんし、とても安楽な状態です。
「今の自分は無分別であろう」という認識を起こしている状態です。
実際の無分別の状態であれば、日頃問題になされている問いが解決します。
腹立ちもありません。事実のままにみます。私的な解釈を用いませんので、無限に活用が可能です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「無分別(空)と分別(縁起)」を活かす中道が大切

zensyu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿」・・ということですが、確かにこの世界におけるあらゆるモノ・コトというものは、本来的には何ら分別ができないものでございます。

なぜかと申しますと、それらモノ・コトというものには、本来的に、本質的に、実体の無い、つまり、「空」なるものであるからでございます。

実体が無いため、分別するすべがないという方が、正解なのかもしれません。

但し、間違ってはいけないのが、実体が無い、空だからと言っても、何もないという虚無、絶無では決してありません。

現実に拙生やzensyu様も、あるいは目の前にあるモノ・コトたちも、現に存在して、成立しています。

ただ、確かに存在し、成立していても、その有り様の本質は、無実体、無自性、無自相であり、空であるということになります。

更には、一切のモノ・コトは「縁起」※によって成立していると仏教では説明することになります。

この「空と縁起」なる理解を進めることを実際の現実生活、修行、仏道に活かしていくことが求められるものとなります。

「分別をはさまずに無分別だと生活すらできません」・・これは当たり前のことです。何でもかんでも無分別であるとして、正誤も善悪も無いと間違って理解して、例えば、願誉浄史様も既に出しておられる例でございますが、赤信号も青信号も関係ない、無分別だとして、目の前の信号が赤信号であっても関係ないとして交差点に突っ込んで見てください。どうでしょうか。最悪車にぶつかって死にますでしょう。これではタダの愚か者です。くれぐれも試さないで下さいね(笑)

「無分別(空)と分別(縁起)」を活かすというのは、一つは迷い苦しみの原因となる、とらわれやかたより、こだわりを無くしながら生きていく、つまり、「中道」のためであるとお考えを頂けましたら良いのではないだろうかと存じております。

※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

回答ありがとうございました

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