無分別をどう生かしたらいいのか
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。
ああその通りだなと思うのですが。
分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。
この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心を観察することから始めてみてはどうでしょうか
無分別になれている境地は、自我を捨てた、悟りの境地ということになるでしょう。
あれが欲しい、これが欲しい、これは好きだ、嫌いだ。損だ得だと考えないように押さえつけている状態は無分別ではないと考えます。
まずは、今の自分の心がどのような状態になっているのか観察してみることだと思います。
イライラしているなあ。
今日のご飯は私が嫌いだと感じるものだなあ。
今日はなんだかワクワクしているようだ。など
それらの心はそのままに、追求しないということではないでしょうか。
無分別智は仏様だけが持っているものです
無分別は理論で考えれば分からなくもないのですが、悟られた仏様の智慧なので私が持つことはできません。
私は「将来必ずそんな仏様になれる」とよろこんで信仰させて頂くことが今の私の精一杯かと思っています。
自分と他人の悩み苦しみをなくすために使う
仏教の目的は、悩み苦しみを消したり制御したりすることです。
そのためには、煩悩を消したり制御したりするのが良いと、お釈迦様は発見しました。
煩悩を消したり制御したりするためには、戒(生活習慣)・定(精神統一)・慧(観察:智慧)の3つの修行があります。
無分別は、定(精神統一)と慧(観察)に関係しています。痴(愚かさ)の煩悩を消したり制御したりする修行が無分別につながる。
本当に無分別の境地になるには、深い精神統一が必要なので、我々には難しいかも。
しかし、無分別を意識して物事を観察することはできるでしょう。
「法は無我・空である」と観察するのです。
法(心・頭で考えたこと)は無我(実体のない)で空(夢幻みたいなもの)であり、
したがって、頭で考えた概念・分別・差別は、執着に値しない、と意識する。
たとえば、他人を苦しめる差別について、人間が頭で考えた差別は執着に値しない、それよりも人の苦しみを減らす方が大切(仏教的)だ、と意識するのが善いのです。
日常生活で使える分別・差別は多いけど、人の苦しみを増やすような分別・差別には注意する。
青信号ならある程度安全、赤信号ならかなりの確率で危険だとかいう分別は、使うほうがよい。
青信号も「空」だ、と、いちいち一旦停止してきっちり安全確認していたら、後続車両の悩み苦しみを増やします。
厳密には
ご質問より
「分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。
この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?」
↑
これは、厳密には、分別の状態のなのですよ。
自分が「無分別である」という、分別上から自己を眺めた分別状態です。
本当の無分別は、自分の判断・解釈が介入しない、瞑想・禅定状態、自我意識をさしはさまないです。
その状態にある時には、良いも悪いも、どう生かしたらよいか、という事もありませんし、とても安楽な状態です。
「今の自分は無分別であろう」という認識を起こしている状態です。
実際の無分別の状態であれば、日頃問題になされている問いが解決します。
腹立ちもありません。事実のままにみます。私的な解釈を用いませんので、無限に活用が可能です。
「無分別(空)と分別(縁起)」を活かす中道が大切
zensyu様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿」・・ということですが、確かにこの世界におけるあらゆるモノ・コトというものは、本来的には何ら分別ができないものでございます。
なぜかと申しますと、それらモノ・コトというものには、本来的に、本質的に、実体の無い、つまり、「空」なるものであるからでございます。
実体が無いため、分別するすべがないという方が、正解なのかもしれません。
但し、間違ってはいけないのが、実体が無い、空だからと言っても、何もないという虚無、絶無では決してありません。
現実に拙生やzensyu様も、あるいは目の前にあるモノ・コトたちも、現に存在して、成立しています。
ただ、確かに存在し、成立していても、その有り様の本質は、無実体、無自性、無自相であり、空であるということになります。
更には、一切のモノ・コトは「縁起」※によって成立していると仏教では説明することになります。
この「空と縁起」なる理解を進めることを実際の現実生活、修行、仏道に活かしていくことが求められるものとなります。
「分別をはさまずに無分別だと生活すらできません」・・これは当たり前のことです。何でもかんでも無分別であるとして、正誤も善悪も無いと間違って理解して、例えば、願誉浄史様も既に出しておられる例でございますが、赤信号も青信号も関係ない、無分別だとして、目の前の信号が赤信号であっても関係ないとして交差点に突っ込んで見てください。どうでしょうか。最悪車にぶつかって死にますでしょう。これではタダの愚か者です。くれぐれも試さないで下さいね(笑)
「無分別(空)と分別(縁起)」を活かすというのは、一つは迷い苦しみの原因となる、とらわれやかたより、こだわりを無くしながら生きていく、つまり、「中道」のためであるとお考えを頂けましたら良いのではないだろうかと存じております。
※「縁起」の理解では、主に三つの階層が考えられ、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございました