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過去に執着したくない

回答数回答 3
有り難し有り難し 33

ネットで宗教の議論をしました。
議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。

最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。

その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。

僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。

しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。

議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。

宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。

それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。

また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。

とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。

トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。
どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

たとえば「宗教戦争」という言葉に矛盾があるように

あなたが相手にしていた人は「自称・宗教家」であって、ちゃんとした宗教家ではなかった、と思えばいいでしょう。どんな業界もピンキリ。たとえば定食で同じ800円払うにしても「お金返して(ToT)」的な、ヒドイ料理もあれば、お値段以上もある。
宗教は人を救いに導く宗教行為が大切なのであって、その乱暴な人のようなドンパチ「論」では人は救われもしませんし、お腹も膨れません。
せめてその知識で人を救うならまだしも、あなたを攻撃したり傷つけているという事は宗教の名をかたった戦闘行為です。
真の宗教家・宗教者にとるべき真の宗教行為・宗教的活動とはそういうネットにあふれる「正義諭」じゃないのだ、と知ればよいのです。
プロミュージシャンはプロの活動をします。アマチュアミュージシャンは何をどう活動していいかもわからない人もいます。おなじようにプロの宗教者は人を救う活動をするもの。ネット内の自称・〇〇さんたちは、アウトプットの仕方としても何をしていいかわからないから、発信する仕方・方法を間違えてしまう方もおられるのでしょう。
あなたは彼の中に自分の非も観た。自分の延長線上に自己矛盾を感じられませんでしたか?
今のまま、彼のようになったとしても白熱議論が人を傷つけて本道から外れてしまったことに矛盾を感じるべきです。平和を訴える人間が暴力を振るうようなもの。
ネット内の活動は純粋な宗教活動とは言えないものもあると思いましょう。
ましてや誹謗中傷や「オレだけが正しい」諭などは、実質的にも本質的にも非・宗教的な姿勢です。
【正義の鉄拳・正義の剣で相手を殺せばいくら正義と主張しても殺人行為】。
世の中には「宗教戦争」という訳の分からん言葉がありますが、我々宗教者としてはハタハタ迷惑な言葉です。
なぜなら宗教者は戦争しません。
あれは宗教のラベル、宗教の名をかたった「戦争家」がやっていることです。
宗教と名乗っていても本質が単なる「思想」「ビジネス」「戦争屋」である場合もあります。
世界の多くの方々が宗教というものを誤解している。
それは偏狭な思想というべきものではないでしょうか。
また、宗教行為、宗教活動という「行為・活動」の本質は平たく言えば、世の中に善玉菌を広める行為です。相手が間違っている、と❝殺菌❞してしまっては、共存できません。どっちかを殺すことになります。
人の本質は行為に現われるのです。

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有り難し
おきもち

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」

ポテすけ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」と昔から申しますように、仏教は論争の勝ち負けを争うようなそんなものではなく、いかに各々自身が悟りへと向けて、お釈迦様の説き示された教えを自分の確かなる仏道に活かし、取り組んでいくべきかが大切となります。

もちろん、仏教において「論理学」は重視されてはいます。正しい認識による正しい判断ができなければ、正しい仏道を歩むことができないからであります。

でも、その論理学の問答においても、相手のことを思い遣っての慈悲の心が伴ったものになるべきであるのが、お互いに仏教を修習していく者同士のあり方でなければならないものであるかと存じております。

ただ、知識や弁論に長けているだけでは、決して悟りへは至れません。智慧だけでは悟りへと至れないのと同じで、必ず方便、福徳の実践が必要となります。

知識、弁論に通じた者であれば、それを活かして慈悲の心により、思い遣り、配慮を持って、相手のことを考えて、間違いを諭してこその方便・福徳の実践となるものであり、勝ち負け云々と言って、高慢、傲慢になっているようでは、とても仏教を修習している者とは言えないところでございます。

いずれにしても、仏教でなくても、宗教的立場を自認するのであれば、愛や慈悲がなければ、その資格はありません。

気にせずに、というのも難しいかもしれませんが、愛や慈悲の無いような議論には、もちろん納得される必要もありませんし、今後乗らないようになさられて下さいませ。

そして、少しずつでもトラウマも払拭していけるように、仏教の修習の中において、無駄な論争、戯論の扱いについての優れた方策を示されておられます龍樹大師の著書の内容(中論、廻じょう論「じょうは、言べんに争い」、空七十論など)についても是非、学ばれてみて下さいませ。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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真に正しい教えは人を非難しません

拝読させて頂きました。その論争で大変心が痛んでしまったご様子ですね。その心のお痛みをお察し申し上げます。
そもそも宗教は人を救い、あまたのものに感謝の気持ちをもつものです。ですからその様に論破して人を誹謗中傷する行いそのものが宗教を語っているのではないと思いますね。
つまり宗教の本質からははるかに逸脱した行為ですね。
あなたがこれからも宗教を学んでいかれるのでしたら人を認めない非難する行為があったらもう宗教ではないと考えて頂いた方が良いと思います。そしてそのような方と無益な争いをなさらずに離れるべきかと思います。
真に正しい教えは人を非難しません、他者を排斥しません、和を以って共に認めあうことです。
あなたがこれからもご研鑽をお積みになり素晴らしい教えにめぐり会い、大切なご縁を結んでいかれ充実した円満な人生を送られます様にと心より仏様にお祈り申し上げます。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

私が見たもの、為したものは宗教とはかけ離れたものだったと気付かされました。
宗教に関する上澄みだけの議論はもうよそうと思います。
丹下先生、こんなにも早く珠玉のお答えを賜り、本当に感謝しております。言葉では表しきれません。
有難うございました。

東先生、お答え有難うございます。
僕はこの悩みを三ヶ月間持ち続け、眠れない日々を過ごし心身ともに疲れ果てておりました。
周りの人間にも相談しましたが、解決には至りませんでした。
しかし今回このようなご縁をいただき、しかも先生にお気づかいいただいて、大げさではなく本当に、生きていてよかったと思いました。
感謝してもしきれません。たとえ困難に遭遇しても、このような場所があることで、安心して生きていける気がします。再び仏教が心の支えとなりました。有難うございます。

川口先生、悩みを解決してくださるだけでなくこれからの僕の仏道に対する向き合い方までアドバイスを下さり、とてもポジティブな意識になりました。
僕は、どのような人生であれ、仏教を心の支えとして、それを使って他者に貢献できる人間になりたいと決意しました。
先生がおっしゃった龍樹の「廻諍論」を読ませていただき、今後も精進します。
もし、自分がこれから知識をつけていったとしても、愛や慈悲、方便と福徳を実践し、先生のように、他者を幸福に、自由にしてあげられるようになりたいと思います。
有難うございました。

川口先生が教えてくださった龍樹をはじめとした様々な人の著書を読み、実体験をしていけば仏教が徐々に理解でき、気持ちも安定していくと思います。重ねて感謝申し上げます。

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