悟りを開こうとする事自体、煩悩ではありませんか?
座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう?
自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。
ありすぎてどれを書いたらいいのかわからない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もっと詳しく説明してくれる人に出会っていないのでしょう。
まず出てくる思いはすべて煩悩であると思ってしまっちゃいませんか?
自然に出てくる思いそれ自体は、煩悩でも何でもありません。
ただ、ぽんぽんと、でてきているだけです。
坐禅や瞑想を通して、よく自分の思いをみて頂きますと、思いというものは、はじめ、縁に触れて自然に発生しているだけの、全自動、オートマティック、オフィシャルなものなのです。
それを、つかまえて、自分の価値観で、出てきた思いに対して「キャッチ、ピックアップ、つかまえ」をして、さらに私的な取扱いをする事によって、その思いに対して不都合が生じます。
たとえば、やましい思いが出てきて「ああ、こんなことを考えてはだめだ」と自分を責める事等。
それによって、心の中にトラブルが生じる。これを煩悩というのであって、本当の仏教というのは世俗の仏教で言われるような、欲があっちゃいかんというような、❝ちーぷ❞な教えではありません。欲がイカンのなら、生きてもイカン、死んでもいかん、息を吸いたいと思ってもイカン、とでもいうのですかい?
次に、悟りを求める事について。
求めとは、上記のように、煩悩でも何でもなく、エネルギー、チカラです。
火も用い方次第で、悪いものにもなれば、良いものにもなる。
五欲の他に、自由になりたい、幸せになりたい、真実を求めたい、イイ人になりたい、これが悪いことかといえば、そうでもないでしょう。
禅では、悟りを求めちゃいかんと言われることがあるとすれば、坐禅の時です。
求めの心が、かえって悟りの状態である坐=外の事に心を乱されない 禅=内なる思いに影響を受けない坐禅の状態になるためには、悟りたい、悟りたいという思いのエネルギーが邪魔になるというだけのことです。静かになりたい、静かになりたいと、ブツブツ言っていれば、こころはいつまでたっても静かになりませんからね。(^<^)
仏教は、ちゃんと正しい仏教を学ぶ必要があります。
◆その高額な薬(おしえ)を飲み続けて、効き目がないならば、その薬は❶効果が無いのかもしれん❷自分の捉え方が違うのかもしれない、という疑いをもつべし。禅の厳しさはそこにあります。
「これでいいのだ これでいいのだ」
人を殺しても「これでいいのだ」ではダメでしょう?(笑)
世俗の仏法と、真実の仏法とでは、違いがあります。さらに求めてみてください。
そうですね
「悟りを求める」なんていうと大袈裟ですが、要は「幸せになりたい」だけなんだとおもいますが、それは今が不幸であるという認識に基づきます。この不幸は要は思い通りにならないということですね。
お釈迦さまも最初は五官から生じる煩悩を断ち切れば幸せになれると考えて、6年間も飲まず食わず、不眠不休で苦行した訳ですが、結局煩悩を断ち切っても幸せには成れないことに気づいた訳ですね。
そこで適度に栄養を補給し、肉体を痛めつけるのではなく、自らを客観的に見つめる瞑想で幸福を手に入れた訳です。
ですから佛教では煩悩や欲を捨てるのではなく、煩悩や欲を調えることを旨としていると思います。
食欲だって、睡眠欲だって、みんな煩悩でありますし、様々な向上心も欲ですが、それらが無くなってしまっては、生命を維持できませんし、何より幸福にはなれませんから。
悟りとは煩悩が消えること
煩悩とは、心にある、悩み苦しみの原因となるはたらきです。
仏教が目指す悟りとは、煩悩が消えることです。
煩悩をなくそうとすることは、悩み苦しみをなくそうとすることですから、その方法が正しいなら、それが逆に悩み苦しみを増やすもの(煩悩)だとは言えないのでは。
例えるなら、掃除しようとすることが汚すことには普通はならない、ということです。
よほど間違った掃除方法でないかぎりは。
さて、煩悩が消えると、その煩悩に応じた悩み苦しみが消えるのです。
例えば、戒禁取見という煩悩は、間違った修行や無意味な迷信などに執着する煩悩です。
迷信にこだわることで余計な悩み苦しみが発生するというのは、なんとなく想像できるでしょう。
で、迷信への執着が消えると、悩み苦しみが一つ消えます。
今まで大事だと思っていたものが、たいしたことないと気付いたら、二度と再びそれに執着しません。一度消えた煩悩は復活しないということでしょうね。
窓に映る木陰を幽霊だと勘違いしていた人が、幽霊じゃなく木陰だと気づいたら、二度と幽霊に見えないでしょう。
我々生き物は、先天的に「勘違い」を抱えています。それを煩悩と言います。
勘違いから脱却して真実に気付くことが悟りだとも言えます。
「世俗諦」と「勝義諦」の二諦
せいや様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
悟りや涅槃、真如など仏教の示そうとするところの最高真理に関しての表現においては、時に、理解がなかなか及ばない難しい表現やビックリするような表現、誤解をもたらしかねないような表現などがありますよね。
誤解をしないためにも、しっかりと一から仏教を学び修していく中で、理解に誤りのないように調えていくことが大切になるかと存じております。
丹下覚元さんも既に述べられておられますが、仏教の説く真理というものには、二通りあり、「世俗諦」と「勝義諦」がございます。
そのため、その示そうとしている表現というものが、一体どちらになるのかを慎重に吟味しながら理解していくのが一つの参考になるのではないかと存じております。
「世俗諦」とは、一応、仏教哲学的に深く吟味しないところにおいて、世俗的・一般的に正しいと認められている真理というものとなります。簡単には、学校の教科書に書いてあるようなことでございます。
一方、「勝義諦」というものは、簡単には、仏教の哲学的な見解としてある「空」(あらゆるモノ・コトというものは、自性・自相[そのもの自体の側における実体]としては成立していないということ)を指向するところの究極の真理となります。
そして、「勝義諦」というものは、本来、言語表現、戯論を超えたところの言語道断、戯論寂滅の真理であるため、表現しようとすると、どうしても無理があり、仏教の基本がある程度理解できていない段階においては、誤解を生じやすいため、誠に注意が必要であるかと存じます。
典型的なものとしては、例えば般若心経において、釈尊の根本教説である四聖諦でさえもが無として否定されており、得る智慧も、つまりは得る悟りさえもが無として否定されています。しかし、それをそのまま素直に理解してしまうと、やはり間違った見解に陥ってしまうこととなります。(否定されているのはあくまでも実体としてのあり方のことでございます。)
また、悟りへの「執着」に関しましては、下記の拙回答もご参照下さいませ。
問い「「執着」の解釈について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010494816.html
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答有難うございます。疑問が浮かんで自分なりの答えを考えている最中、何だか目の前が明るくなりました。お坊さんから答えを頂けたおかげで、空が煌めいて庭の木々がいつも以上に美しく見えてきました。何だか不思議な気分です。バカボンパパが言った「これでいいのだ」はこういう意味だったんだろうなと思う今日この頃です。お二人にお言葉を頂けて本当に嬉しいです。また、hasunohaに出会えた事も感謝します。