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悟りを開こうとする事自体、煩悩ではありませんか?

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座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう?

自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと詳しく説明してくれる人に出会っていないのでしょう。

まず出てくる思いはすべて煩悩であると思ってしまっちゃいませんか?
自然に出てくる思いそれ自体は、煩悩でも何でもありません。
ただ、ぽんぽんと、でてきているだけです。
坐禅や瞑想を通して、よく自分の思いをみて頂きますと、思いというものは、はじめ、縁に触れて自然に発生しているだけの、全自動、オートマティック、オフィシャルなものなのです。
それを、つかまえて、自分の価値観で、出てきた思いに対して「キャッチ、ピックアップ、つかまえ」をして、さらに私的な取扱いをする事によって、その思いに対して不都合が生じます。
たとえば、やましい思いが出てきて「ああ、こんなことを考えてはだめだ」と自分を責める事等。
それによって、心の中にトラブルが生じる。これを煩悩というのであって、本当の仏教というのは世俗の仏教で言われるような、欲があっちゃいかんというような、❝ちーぷ❞な教えではありません。欲がイカンのなら、生きてもイカン、死んでもいかん、息を吸いたいと思ってもイカン、とでもいうのですかい?
次に、悟りを求める事について。
求めとは、上記のように、煩悩でも何でもなく、エネルギー、チカラです。
火も用い方次第で、悪いものにもなれば、良いものにもなる。
五欲の他に、自由になりたい、幸せになりたい、真実を求めたい、イイ人になりたい、これが悪いことかといえば、そうでもないでしょう。
禅では、悟りを求めちゃいかんと言われることがあるとすれば、坐禅の時です。
求めの心が、かえって悟りの状態である坐=外の事に心を乱されない 禅=内なる思いに影響を受けない坐禅の状態になるためには、悟りたい、悟りたいという思いのエネルギーが邪魔になるというだけのことです。静かになりたい、静かになりたいと、ブツブツ言っていれば、こころはいつまでたっても静かになりませんからね。(^

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

そうですね

「悟りを求める」なんていうと大袈裟ですが、要は「幸せになりたい」だけなんだとおもいますが、それは今が不幸であるという認識に基づきます。この不幸は要は思い通りにならないということですね。

お釈迦さまも最初は五官から生じる煩悩を断ち切れば幸せになれると考えて、6年間も飲まず食わず、不眠不休で苦行した訳ですが、結局煩悩を断ち切っても幸せには成れないことに気づいた訳ですね。
そこで適度に栄養を補給し、肉体を痛めつけるのではなく、自らを客観的に見つめる瞑想で幸福を手に入れた訳です。
ですから佛教では煩悩や欲を捨てるのではなく、煩悩や欲を調えることを旨としていると思います。
食欲だって、睡眠欲だって、みんな煩悩でありますし、様々な向上心も欲ですが、それらが無くなってしまっては、生命を維持できませんし、何より幸福にはなれませんから。

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昭和39年生。昭和62年佛教大学卒。

悟りとは煩悩が消えること

煩悩とは、心にある、悩み苦しみの原因となるはたらきです。
仏教が目指す悟りとは、煩悩が消えることです。
煩悩をなくそうとすることは、悩み苦しみをなくそうとすることですから、その方法が正しいなら、それが逆に悩み苦しみを増やすもの(煩悩)だとは言えないのでは。
例えるなら、掃除しようとすることが汚すことには普通はならない、ということです。
よほど間違った掃除方法でないかぎりは。
さて、煩悩が消えると、その煩悩に応じた悩み苦しみが消えるのです。
例えば、戒禁取見という煩悩は、間違った修行や無意味な迷信などに執着する煩悩です。
迷信にこだわることで余計な悩み苦しみが発生するというのは、なんとなく想像できるでしょう。
で、迷信への執着が消えると、悩み苦しみが一つ消えます。
今まで大事だと思っていたものが、たいしたことないと気付いたら、二度と再びそれに執着しません。一度消えた煩悩は復活しないということでしょうね。
窓に映る木陰を幽霊だと勘違いしていた人が、幽霊じゃなく木陰だと気づいたら、二度と幽霊に見えないでしょう。
我々生き物は、先天的に「勘違い」を抱えています。それを煩悩と言います。
勘違いから脱却して真実に気付くことが悟りだとも言えます。

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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

「世俗諦」と「勝義諦」の二諦

せいや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りや涅槃、真如など仏教の示そうとするところの最高真理に関しての表現においては、時に、理解がなかなか及ばない難しい表現やビックリするような表現、誤解をもたらしかねないような表現などがありますよね。

誤解をしないためにも、しっかりと一から仏教を学び修していく中で、理解に誤りのないように調えていくことが大切になるかと存じております。

丹下覚元さんも既に述べられておられますが、仏教の説く真理というものには、二通りあり、「世俗諦」と「勝義諦」がございます。

そのため、その示そうとしている表現というものが、一体どちらになるのかを慎重に吟味しながら理解していくのが一つの参考になるのではないかと存じております。

「世俗諦」とは、一応、仏教哲学的に深く吟味しないところにおいて、世俗的・一般的に正しいと認められている真理というものとなります。簡単には、学校の教科書に書いてあるようなことでございます。

一方、「勝義諦」というものは、簡単には、仏教の哲学的な見解としてある「空」(あらゆるモノ・コトというものは、自性・自相[そのもの自体の側における実体]としては成立していないということ)を指向するところの究極の真理となります。

そして、「勝義諦」というものは、本来、言語表現、戯論を超えたところの言語道断、戯論寂滅の真理であるため、表現しようとすると、どうしても無理があり、仏教の基本がある程度理解できていない段階においては、誤解を生じやすいため、誠に注意が必要であるかと存じます。

典型的なものとしては、例えば般若心経において、釈尊の根本教説である四聖諦でさえもが無として否定されており、得る智慧も、つまりは得る悟りさえもが無として否定されています。しかし、それをそのまま素直に理解してしまうと、やはり間違った見解に陥ってしまうこととなります。(否定されているのはあくまでも実体としてのあり方のことでございます。)

また、悟りへの「執着」に関しましては、下記の拙回答もご参照下さいませ。

問い「「執着」の解釈について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010494816.html

川口英俊 合掌

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質問者からのお礼

回答有難うございます。疑問が浮かんで自分なりの答えを考えている最中、何だか目の前が明るくなりました。お坊さんから答えを頂けたおかげで、空が煌めいて庭の木々がいつも以上に美しく見えてきました。何だか不思議な気分です。バカボンパパが言った「これでいいのだ」はこういう意味だったんだろうなと思う今日この頃です。お二人にお言葉を頂けて本当に嬉しいです。また、hasunohaに出会えた事も感謝します。

「煩悩」問答一覧

煩悩について

お世話になっております。 浄土真宗では煩悩をどう捉えているのでしょうか。 煩悩を自覚することで慚愧し、内省するのですよね。具体的に、慚愧とはどういうことなのでしょうか? 例えばですが、僕も男(人間)ですから性欲というものはありますが、性に関する煩悩を自覚した時には性欲をどうするのですか?消そうと試みるのですか?(煩悩を否定的に捉える)まあ、いいやと開き直るのですか?(煩悩を肯定的に捉える)その辺がよく分かりません。 ちなみに、煩悩を消そうと試みる場合は、それはもはや「菩薩」という概念になってしまうように思います。 また、仏教においては分別心があればそれは煩悩ですよね。好き嫌い、善悪、優劣など。 しかし、そういうものに関しても慚愧するのでしょうか?僕達は人間ですよ。嫌いな人もいれば、好きな人もいます。そもそも、「好き」という感情が無ければ恋愛さえできないのではないですか。 僕はまだ学生ですが、将来仕事する時にも良し悪しを判断しなければいけない。もちろん、世間的(主観的)な善悪に過ぎませんが。でも生きていくためにはどうしても必要な判断ですよね。なので、人間の知恵も大切だと思うのですが...。 詳しい方、回答お願い致します。 南無阿弥陀仏

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執念との向き合い方

こんにちは。私は自分の執念深さに悩んでいます。 ある知人(知人Aにします)と交流してます。 その知人Aは私の事を馬鹿にしています。 というもの私は何をするにしてもうまくこなす事が出来ないので周りからも周知で馬鹿にされています。 一方知人Aは明るくて友達がたくさんで何でもうまくこなして自信に溢れているように見えますが、人の成功を喜んだり挑戦を応援できないので自己肯定感の低い人なんだろうなと私は勝手に認識しました。 私に対して今の言葉で言うとマウントに似た行為をよくされるのですが、これを言葉に出してしまうと倫理に反してしまうので黙って聞いていていつも自分の心が濁り怒りや悲しみ自己否定の沼に浸かっていました。 そして知人Aと会話をしていたある日、自身の嫉妬心やねたみで嫌な行動をしてしまい罪悪感を感じ後悔している事が過去にたくさんあると聞きました。 知人AはSNSをしています。 私は知りませんでしたが、別の方が私に知人AがSNSしているよと紹介してくれました。 見てみると私の印象が悪くなる嘘を何個か書いていました。 怒りが湧きました。そして私は知らないフリをしました。 とある日知人Aがマウントをとりながら曲がった事が嫌いだとか悪口が嫌いだと話し出しました。 じゃあ嘘ついた事ある?と私は犯意を持って試しました。 出来る事なら嘘はつきたくないと濁った返事をしました。 ふーんそうなんだと返しました。 私の心は確実に知人Aを侮蔑し馬鹿にしていました。 そして誰より私が一番ひどいマウントをしていました。 1人になった時に猛烈な自己嫌悪と罪悪感が湧きましたが、すぐに負の執念がやってきてそれを取り払い自分を正しました。 そして頭の隅に見えないようにして存在している『知人Aにも感情があり過去の行いで罪悪感で満たされている事実』を意識すると後悔するのですが、今までされて来た事を思い出すと怒りや悲しみが湧きまた執念で満たされます。 そして後悔と執念のループと思いきや私は執念ばかりです。 執念について理由を考えてみたら自分が一番自己肯定感が無く、自分を低くしてマウントを取ってるからと感情と向き合って出た答えでした。 相手も自分も大切にしたいです。 どうしたら執念を抑える事が出来るのか。 自分の行動の愚かさ、感情の醜さが苦しいです。 こんな自分にお言葉いただけたらと思います。

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強すぎる独占欲、我が儘と向き合うには

はじめて相談させて頂きます。 現在「何もかもが自分の思い通りにならない不満感」そして「そんな自分に対する嫌悪感」に日々振り回されている状況です。 常に自分の世界に閉じこもる癖があり、他人に踏み込まれるのが嫌で仕方ありません。 誰かと楽しい時間を共有したり、趣味を通じて繋がるといったことが絶望的に下手で、他人と向き合うと必ず相手を消耗させてしまい、悪い結果に終わります。 自分の好きなものは独り占めしたいし、他人と好みが被ると不愉快な気持ちになります。 自分自身がコミュ障なだけでなく、他人が目の前で仲良く楽しげに振る舞っていると苛立ちを覚えます。 (私がこんなに嫌な気分なのに、何でお前達は笑ってるんだ!という感じです) 最近は他人の話し声そのものが不快になってきたので、聴覚過敏の傾向もあるのかもしれません。 幼少の頃から何度も指摘されてきましたが、私は非常に自己中心的な人間なのだと思います。 不満があるのに、それを表に出せずイライラしているので、いつも人に避けられてしまいます。 家族とも遠く離れて一人暮らしをしていますが、この状況はきっと今後も続くのだろうと思います。 時折「我が儘を通せる強い人」に憧れることがあります。 私と同様に自己中心的な性質であっても、パートナーや友人に恵まれていたり、社会で一定の役職についている人を見ると、この歳で何も得られていない自分にまた腹が立ちます。 すみません。何だか支離滅裂な文章になってしまいました。 物凄く生きづらい性格なのは承知していますが、それでも生きていかなければならず、自分の中でどう折り合いをつけたらいいのか分からないのです。 恋愛や結婚は諦めていますし、孤独死も覚悟の上ですが、せめてこれからの人生を心穏やかに過ごしていけたらと思います。 アドバイス頂けたら幸いです。よろしくお願いします。

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煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

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