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悟りを開こうとする事自体、煩悩ではありませんか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 62

座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう?

自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。

2015年5月15日 19:38

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと詳しく説明してくれる人に出会っていないのでしょう。

まず出てくる思いはすべて煩悩であると思ってしまっちゃいませんか?
自然に出てくる思いそれ自体は、煩悩でも何でもありません。
ただ、ぽんぽんと、でてきているだけです。
坐禅や瞑想を通して、よく自分の思いをみて頂きますと、思いというものは、はじめ、縁に触れて自然に発生しているだけの、全自動、オートマティック、オフィシャルなものなのです。
それを、つかまえて、自分の価値観で、出てきた思いに対して「キャッチ、ピックアップ、つかまえ」をして、さらに私的な取扱いをする事によって、その思いに対して不都合が生じます。
たとえば、やましい思いが出てきて「ああ、こんなことを考えてはだめだ」と自分を責める事等。
それによって、心の中にトラブルが生じる。これを煩悩というのであって、本当の仏教というのは世俗の仏教で言われるような、欲があっちゃいかんというような、❝ちーぷ❞な教えではありません。欲がイカンのなら、生きてもイカン、死んでもいかん、息を吸いたいと思ってもイカン、とでもいうのですかい?
次に、悟りを求める事について。
求めとは、上記のように、煩悩でも何でもなく、エネルギー、チカラです。
火も用い方次第で、悪いものにもなれば、良いものにもなる。
五欲の他に、自由になりたい、幸せになりたい、真実を求めたい、イイ人になりたい、これが悪いことかといえば、そうでもないでしょう。
禅では、悟りを求めちゃいかんと言われることがあるとすれば、坐禅の時です。
求めの心が、かえって悟りの状態である坐=外の事に心を乱されない 禅=内なる思いに影響を受けない坐禅の状態になるためには、悟りたい、悟りたいという思いのエネルギーが邪魔になるというだけのことです。静かになりたい、静かになりたいと、ブツブツ言っていれば、こころはいつまでたっても静かになりませんからね。(^

2015年5月16日 15:29
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

そうですね

「悟りを求める」なんていうと大袈裟ですが、要は「幸せになりたい」だけなんだとおもいますが、それは今が不幸であるという認識に基づきます。この不幸は要は思い通りにならないということですね。

お釈迦さまも最初は五官から生じる煩悩を断ち切れば幸せになれると考えて、6年間も飲まず食わず、不眠不休で苦行した訳ですが、結局煩悩を断ち切っても幸せには成れないことに気づいた訳ですね。
そこで適度に栄養を補給し、肉体を痛めつけるのではなく、自らを客観的に見つめる瞑想で幸福を手に入れた訳です。
ですから佛教では煩悩や欲を捨てるのではなく、煩悩や欲を調えることを旨としていると思います。
食欲だって、睡眠欲だって、みんな煩悩でありますし、様々な向上心も欲ですが、それらが無くなってしまっては、生命を維持できませんし、何より幸福にはなれませんから。

2015年5月15日 20:50
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有り難し
おきもち

昭和39年生。昭和62年佛教大学卒。

悟りとは煩悩が消えること

煩悩とは、心にある、悩み苦しみの原因となるはたらきです。
仏教が目指す悟りとは、煩悩が消えることです。
煩悩をなくそうとすることは、悩み苦しみをなくそうとすることですから、その方法が正しいなら、それが逆に悩み苦しみを増やすもの(煩悩)だとは言えないのでは。
例えるなら、掃除しようとすることが汚すことには普通はならない、ということです。
よほど間違った掃除方法でないかぎりは。
さて、煩悩が消えると、その煩悩に応じた悩み苦しみが消えるのです。
例えば、戒禁取見という煩悩は、間違った修行や無意味な迷信などに執着する煩悩です。
迷信にこだわることで余計な悩み苦しみが発生するというのは、なんとなく想像できるでしょう。
で、迷信への執着が消えると、悩み苦しみが一つ消えます。
今まで大事だと思っていたものが、たいしたことないと気付いたら、二度と再びそれに執着しません。一度消えた煩悩は復活しないということでしょうね。
窓に映る木陰を幽霊だと勘違いしていた人が、幽霊じゃなく木陰だと気づいたら、二度と幽霊に見えないでしょう。
我々生き物は、先天的に「勘違い」を抱えています。それを煩悩と言います。
勘違いから脱却して真実に気付くことが悟りだとも言えます。

2015年5月16日 2:17
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

「世俗諦」と「勝義諦」の二諦

せいや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りや涅槃、真如など仏教の示そうとするところの最高真理に関しての表現においては、時に、理解がなかなか及ばない難しい表現やビックリするような表現、誤解をもたらしかねないような表現などがありますよね。

誤解をしないためにも、しっかりと一から仏教を学び修していく中で、理解に誤りのないように調えていくことが大切になるかと存じております。

丹下覚元さんも既に述べられておられますが、仏教の説く真理というものには、二通りあり、「世俗諦」と「勝義諦」がございます。

そのため、その示そうとしている表現というものが、一体どちらになるのかを慎重に吟味しながら理解していくのが一つの参考になるのではないかと存じております。

「世俗諦」とは、一応、仏教哲学的に深く吟味しないところにおいて、世俗的・一般的に正しいと認められている真理というものとなります。簡単には、学校の教科書に書いてあるようなことでございます。

一方、「勝義諦」というものは、簡単には、仏教の哲学的な見解としてある「空」(あらゆるモノ・コトというものは、自性・自相[そのもの自体の側における実体]としては成立していないということ)を指向するところの究極の真理となります。

そして、「勝義諦」というものは、本来、言語表現、戯論を超えたところの言語道断、戯論寂滅の真理であるため、表現しようとすると、どうしても無理があり、仏教の基本がある程度理解できていない段階においては、誤解を生じやすいため、誠に注意が必要であるかと存じます。

典型的なものとしては、例えば般若心経において、釈尊の根本教説である四聖諦でさえもが無として否定されており、得る智慧も、つまりは得る悟りさえもが無として否定されています。しかし、それをそのまま素直に理解してしまうと、やはり間違った見解に陥ってしまうこととなります。(否定されているのはあくまでも実体としてのあり方のことでございます。)

また、悟りへの「執着」に関しましては、下記の拙回答もご参照下さいませ。

問い「「執着」の解釈について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010494816.html

川口英俊 合掌

2015年5月18日 15:29
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

回答有難うございます。疑問が浮かんで自分なりの答えを考えている最中、何だか目の前が明るくなりました。お坊さんから答えを頂けたおかげで、空が煌めいて庭の木々がいつも以上に美しく見えてきました。何だか不思議な気分です。バカボンパパが言った「これでいいのだ」はこういう意味だったんだろうなと思う今日この頃です。お二人にお言葉を頂けて本当に嬉しいです。また、hasunohaに出会えた事も感謝します。

「煩悩」問答一覧

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

【暴言多め】ちくしょー!私は煩悩の塊だぞ!?

乗っけから乱暴ですみません。 ここでしか言えないので。周りの人は、 「怖いと思ったら、離れなさい。 それが今あなたにできる事」 と言います。 でも、私だって楽しみたい! 他の人みたいに、安心して遊びたいし、 歩きたいし! カワイイ子いっぱいいるだろ! 何で私なんだよー! 私からは、「とても感じのいい、 人から頼られやすい雰囲気」 「内面の良さが外面に」 出ているそうです。不思議です。 正体はこのザマですよ?描く絵だって 血生臭いし。結構物騒な事も考えて ますよ? 最近は、生来の防衛本能(霊感と 呼んでます)が大暴れしています。 一歩道を歩いて、男性とすれ違えば 下を向いて横目で警戒。 目を見なくても、 「こいつ、ヤベェぞ」 と頭の中で 警報が鳴ります。 いつ絡まれないか、手を出されないか。 現実、いきなり手を振って近づいて こられそうになった事もあります。 人混みに出て、後ろに男性が来れば、 ソワソワ落ち着きがなくなり、 睨みつけたり、徐々に離れたりと言った 目立った行動をとります。 あとは、防犯ブザーをちらつかせ たり、付属のレーザーライトを カチカチ点滅させてしまったり… これで、逆に話しかけられた事も あります。怖いんだよ畜生が! 要は威嚇です。 同性もしかり。私が前を通過すると、 目で追われたり。迷惑なんだよー! 最近は、この本能大暴れのせいで 今年2度目の風邪をひきました。 暴言三昧ですみません。 聞いて欲しかった、それだけです。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

光合成するペット(自然と煩悩)

私の中学生の時の「将来の夢」は、「動く植物を開発すること」でした。 一番興味があったのが、『地球温暖化』全般。一番、地球温暖化を促進されるのが牛のゲップと聞けば、「ゲップし難いエサ(植物)の開発」を、生き物(動物)が出すCO2を吸収しているのは緑(植物)だと習えば、「とんな場所でも行ける緑(植物)の生き物(動物)の開発」を、と考えてきました。 自分が排出するCO2は、自分のペット(動く植物)に吸収してもらい、酸素をまかなう。そういう世の中、地球に優しい生き方が出来る社会にしていきたいと思っていました。 それで、中学生の時も高校生の時も、農学部に行きたい!新しい環境作りに貢献したい!と思い続けていましたが、幸か不幸か、何故か勝手に出された推薦入試の願書→受かったら辞退出来ない受験に合格してしまい、長年の夢を変更するしかないという形で幕を閉じました。 でも、高校1年生の時に被災(阪神淡路大震災)した記憶のせいか、医学を学ぶのも楽しかったので、新たな道を歩む決意をしたのです。 そして、「只今」違う生き方をしながらも、ふとしたことから、また「動く植物」が必要なのではないかと思い、過去の自分の夢を思い出すようになりました。 西日本豪雨災害に遭ったからからです。もちろん、根本的には『地球温暖化』が背景にありますが、今回は『豪雨による土砂崩れ』でたくさんの尊い命が失われた背景から、人の手が入らない山、森の木々たちが、自分で動いて、土砂災害を防ぐ働きをしてくれたなら、少しは亡くなる方が減らせたのではないかと思ったのです。 でも、人間が、自然・地球をこうなるまで放置し、対策を練らなかったのもまた事実。 私は有馬温泉の近くに住んでいます。避暑地でもあります。が、最近、自分の部屋にデジタル式の温度計を置くようになり、自分の部屋の温度が、冬と夏で「なぬっ!!!」と思う程、寒暖差があることが判明しました。(昔と明らかに違うと肌でも感じられますが)。 この今年の猛暑、酷暑。北の端の1番涼しいハズの部屋の温度が、35度に到達しているではないですか。この前の冬には、部屋の中なのに氷点下になっていたのにです。 何故、もっともっと『地球温暖化』のことをちゃんと考えてこなかったのかと痛感している毎日です。 お坊さま達も、お寺さんの中で熱中症になっていませんか? 地球温暖化をどう捉えていらっしゃいますか?

有り難し有り難し 28
回答数回答 4

アカウントの『私の煩悩:』の変更

初めてhasunohaを訪れた際、アカウントに『私の煩悩:』を記す欄があったので、何となく、ふと思い付いたことを書きました。 私が書いたのは、『よく「未来は自らの手で切り開くもの!」と言われるが、未来に希望が見出だせないでいる。』というもの。 ただ「解答用紙に、何か書かないと」というような思いだけで書きました。いい加減な書き方をして、すみません。 しかし、訪れて10日ぐらい経った今、「何か違う」「なら書き直そう」と思いました。ある投稿を読んだのがきっかけです。ここからが、私が未熟であるからこそ生まれた煩悩になります。 新しい『私の煩悩:』 (来世なるものを自ら決められるのだとしたら)次は男に生まれてみたい、という煩悩が生まれたこと 変更理由:①私が今、女であるから。②私は男として生きたことがないから。③なってみなきゃ分からないことがあるはずだから。 以上。 しかし、来世に、また人間として生まれてくる可能性も確率も分からぬまま、容易くそんなことを言えた義理じゃありません。もし人間になれたとしても、今の、現世の「女」の記憶が残っているものでしょうか。 以前、私は『プチトマト』というタイトルの質問を致しました。「私の前世はプチトマトだ!」と小2の私が直感的に思ったことを書きました。ですが、残念ながら「プチトマトの記憶」はありません。ただ「ハッ!」と閃いただけだったのでしょう。 今は、煩悩も「心境の変化は日常茶飯事」と同様の仕組みではないかと感じております。 哀しくも、女の私には、男のことは分かりません。それと同じように、男の人も、女のことは分からないのではないでしょうか。 「どちらが有利・不利」など、両者を経験した者にしか分からないことです。つまり、「そんなこと言っても仕方ない」「誰にも分からないのではないか」と思っています。 そんなことに腹を立てているから、「怒という煩悩」が生まれてしまうのではないか、と、只今感じております。 しかし、まず性別が「男と女しかない」と思っていること自体、『無知』であり『偏見』『差別』ではないでしょうか。 この時代に「男になりたい」「女になりたい」というのは、短絡的過ぎるような気がしてなりません。それなのに、私の頭にムダな煩悩が浮かびました。 どんなご意見でもご批判でも、受け止めます。皆様のお心の内をお聞かせ下さい。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

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