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名声を求めてしまうのは煩悩ですか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 58

私は、中高とエリートコースに乗り、大学も旧帝大を卒業しました。しかし、24歳の時、大病を患ってしまい、将来のエリートコースが途絶えました。

私は、公務員か医者、弁護士になりたかったのですが、病気のためそのような志も、もう叶うことはありません。あの時こうしていれば、あの時あんなことしなければ、病気にならなかったのに、と後悔ばかりが先立ち、心がとても苦しいです。

過去を患わず、未来に向かって生きていきたいのですが、病気のためそれもままなりません。一体この心をどうしたらいいのでしょうか?

過去のエリートコースに乗っていた自分と比べて今の自分があまりにもみじめで嫌になります。不躾な質問で恐縮ですが、回答よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

捨てられない心。それを活かすか溺れるか。

仏教では「名利」とか「名利心」などと使うことが多いです。

「名聞利養」を略した言葉ですね。

名声を得たい、名声により利益を得たいという貪る心です。

煩悩と言って差し支えないと思いますが、「あなたのその名声を求める心は煩悩だ!」と私からは言い難い面があります。

なぜなら、そう「相手の名利」を非難する私にはそれにより私の名を上げたいという「私の名利心」が垣間見られるからです。

そうなんです。捨てられないんです。どこまでも名利なんだと思います。人間は。

私は僧侶ですが、いい声だねと言われたいし、いいお話だねと言われたい。このhasunohaでもたくさん「有難し」をもらいたい。

離れられないんです。

だからそれはどこまでも私の在り方を嘆く言葉。今、あなたがあなた自身の名利心によって苦しんでいるならばそれはあなたを煩い悩ませる煩悩でしょう。
しかし、それを得られなくとも苦しくはない。ただし、得られたら嬉しい。それが喜びであるという風に上手く付き合っていけるならそれは「生きがい」となるかもしれません。

「~したい」「~になりたい」

という「欲望」は人生を楽しくもします。そこに生きる喜びを感じます。しかしその欲望はひとたび道を求めた時に煩悩となり私を襲います。

今、あなたは私の人生これでよかったのか?これからどう生きればよいのか?と真実の道を求められているのではないでしょうか?

私は私の名利心を捨てられないからこそ、「名利に溺れていないか?」と自らの身の在り方を知らされるために仏道を志します。

この回答にも私の名利心が溢れています。それは間違いありません。よく言えたものだと自分で恐ろしくもなります。

それでも生きていく。いや、生かされていく。その自分を知らされながら道を歩んでいく。そんな人生なのだと思います。

さあyasu様はこれからどう生きますか?

過去とくらべでみじめになるも自由、これからまた違う方面で名声を求めてやるぜ!と生きがいを見出していくも自由です。

他と比べることのない、あなた自身にとってのエリートコースを歩み、あなた自身からの名声をあなたが得てください。
もちろんそれに溺れないよう仏様に真実を促されながら。

応援しております。

合掌

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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諦めとは

例えばお釈迦様も各宗派の祖師にも絶大な名声があった事は当たり前の事実ですね。だからこそ、仏教はここまで広まったのもまた確かな事実。
所がお釈迦様なんて王子という名声が既に用意されていたのに自ら捨て去り衆生を苦しみから救う旅に出られた。
お釈迦様は名声より、また絢爛豪華な暮らしよりも、大事な事に気付かれたのですね。

名声とは第三者が「すごい、えらい、かっこいい、真似できない」と評価される事でしょう。又はメディアに取り上げられたりもございましょう。いずれこの欲をいつ満たせるかは第三者に頼るもので自分ではなんともならない、虜になればしまいにはひけらかしたりしてまでその欲を満たそうとするでしょう。
と、名声そのものが悪いものではなく、それを求めた瞬間に煩悩になることがわかります。

病で夢を諦めたと申されますが、まだ貴方は本当には諦めていらっしゃらないと感じます。諦めとは本来仏教用語、事実をわきまえて明らかに観さだめるという事が本来の意味。
もう過去のエリートコースには戻れない、そして仏道の心理に希望を見出している。この二つの事実をしっかり諦め見定め、行うだけでそこには名声より心地よい境地があるのですよ。

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おきもち

山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
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真のエリートコースは・・

yasu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「世間八法」(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)には、確かに真なる幸せ、安楽はないため、あまり求めてとらわれを起こすべきではありませんが、しかし、その動機によっては、必要である場合もあると考えています。

例えば、真に人々を救える力を有していたとしても、山奥に籠って生活しているだけでは、何も他を救えることはできません。

もし、その力と同等の人々の評価(称賛・誉れ・名声)があれば、自ずとその人のところへと人も馳せ参じ、また、下山を誘い、他を救うための行いを勧めること、実践できていくこともあるでしょう。

とにかく、何事もまずは動機次第。善い動機、それも利己心からではなく、利他心からの動機が大切となります。

仏教の場合でも、動機・初発心としての「菩提心」、悟りを求める強い心が、その後の仏道の進み具合のありようを大きく左右することになって参ります。

ちょっとやそっとのことでは、退かない強い善い動機・志を大切に、今、おかれている現実の下でできる最善を目指して、できることから一つずつでも取り組んで参りましょう。人々による評価はとにかく二の次です。実力がついてくれば、自然と評価もついてくることにもなるでしょうし。

真のエリートコースは、初志貫徹の道であるかと存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

大変ためになる回答ありがとうございました。なんとなく名声を求める気持ちが煩悩としてしょうがないものなのだと思い、納得しました。あとは、それとどう付き合っていくか、ですね。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ