皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

回答が追いついておりません。お坊さんから丁寧にご回答いただくため質問受付数を制限させていただいております。大変申し訳ございません。

死に行く人への心構え

先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。

中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。

先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。
ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか?

そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。
先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

死について
有り難し 36
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

「あなた」の「今」の死への思いが聞きたい

「枕経」の質問に回答した者の一人として、気になっており、すでにお二人の回答が入っておりますが戻ってきてしまいました。

さて、「そのような人の、死に際しての心構え」つまり、ご質問における、

「どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っている」人

ということになろうかと思いますが、これではなんとも申し上げられません。

仏教はこういう場合はこうすればいいという処世術でも、こうなった時はそうすればいいかという対処法の予習でもありません。

仏の教えは正に今、悩み苦しむ人に寄り添う具体的なはたらきかけでございます。

「そのような人」ではなく「あなた」が「今」何に悩み苦しみ、どういう状況なのか。おそらく前回の質問から推察してもお抱えの大きな課題があることだと思います。

書ける事、書けない事、インターネットの特性への恐れもおありでしょうが、もしかしたら私たちがまた何か力になれることもあるかもわかりませんので、また機会がありましたら「具体的なあなたのお話し」をお聞かせください。

人間の死亡率は100%です。そういう意味では心構えも確かに大事でしょう。しかし、それはあくまでも具体的な生の歩みの中から問われてくるものでありましょう。

生もご縁、死もご縁。私が望むものも、望まないものもみなご縁。あれはいるけど、これはいらないというわけにはいかないのです。それが老・病・死の縁だとしても。

共に仏の教えに「私」(あなた)を聞いて参りましょう。

念仏を唱えるだけです

死は宗教、宗派、個人の思想などによって様々な受け止め方、解釈の仕方があります。
私としては、死を前にした人や生き物に対してできることは念仏を唱えること、念仏を聞かせることだけです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と聞こえるように唱えるのです。
阿弥陀仏は、極楽浄土へ行くことを願って阿弥陀仏の名を唱える者を、命が尽きた瞬間に迎えに行き極楽浄土へ連れて行くと誓われました。
極楽浄土とは覚りに至る為の仏道修行をする所ですが、更に、先に行き修行しているご両親やご先祖達と再会できる所でもあります。
枕経とはその名の通り、本来ならばまだ息のあるうちに念仏を唱え聞かせてあげたいのですが、実際はなかなかそういう事もできず、亡くなった後で唱えることが多いのが実情です。
しかし、浄土宗の宗祖法然上人は、人は儚くいつ死ぬか分からない、夜寝れば必ず朝が来るとは限らない、いつ何処で命のともし火が消えるか分からない、だから死を前にして念仏を唱える事、念仏を聞く事が出来ない事もあるだろう。だから、常日頃から念仏を唱えなさい、毎日念仏を唱えなさい、と言われました。
私としても常日頃から極楽浄土を願って念仏を唱えて欲しいと思います。
声が出なければ声を出しているつもりで構いません、それも難しければ代わりに周りの人が唱えて聞かせてあげてください。
南無阿弥陀仏

次の生もしっかり頑張って下さい、です(補足あり)

曹洞宗で最も多く読まれている枕経は「佛垂般涅槃略説教誡経」です。
これは涅槃に入られるお釈迦さまが弟子たちに最後の説法として佛弟子の生き方を説いたものです。

このお経には極楽も地獄も出てきません。天女が舞い降りて来て妙なる音楽に包まれながら亡くなった方の魂を光の国に導いてくれる、なんてことも一切書かれていません。
佛の教えをどうやって実践して生きるか、ということがこんこんと説かれています。

死は今生の区切りとなる一大事ですが、だからといって「これで完結。大円団」というわけではありません。今生の生き様が宿縁となって、やがて後生が始まるのです。

道元禅師は「私たちは善い宿縁のおかげでなかなか生まれにくい人間として今生に生まれ、なかなか巡り会えない佛の教えに巡り会えた。生まれ変わり死に変わりをくり返す命にとって、またとない大チャンスだ。こんなにラッキーな自分の命をぼんやり浪費して良いわけがない」と説かれています。
また、「私たちが死ぬ時、ついてくるのは自分の生き様から得た宿縁だけだ。私たちが佛の教えを実践しなければならない道理も知らず、善悪も弁えないような誤った考えの者たちに巻き込まれてはならない」とも説かれています。

ですから、枕経でも今生の復習と後生の予習を兼ねて、お釈迦さまの最後の説法を読むのです。
今生での成果を振り返り、次の生でもしっかり頑張れるように、とはげまされるのです。

(補足)

人は自分から死に近づいてはいけません。
生死は佛の教える通り、因縁の大きな流れの中で向こうからやってくるものです。自分の勝手な判断で訪ねて行ってはいけません。

生死による悲しみから逃れようとして悩みの中に落ち込んだり、逆に死によって安らぎが得られると勘違いして求めるようなことは、どちらもはっきりと間違いです。

私たちは、どのようにしてより良く生きるか、という生きるための教えを常に求めなければならないのです。

臨終の事を習うて、のちに他事をなろうべし

圓常寺聖章様が回答されておられますので、重複はしないようにと思いますが、まさしく聖章様の言われる「念仏」の部分を「お題目:南無妙法蓮華経」と変えてもほぼ、同じような回答になります。
ただ、宗祖日蓮聖人は「人の寿命は無常なり、出る息は入る息を待つことなし。賢しこきも、はかなきも、老いたるもの、若きものも定めなき習いなり。さればまず臨終の事を習うて、のちに他事をなろうべし」と仰せになっておられ、人間の寿命というものは、いつ閉じるか分からないゆえに、まずは自分自身の臨終(死)を考えたのちに、人生を生きぬくことが肝要と言われました。
ご質問の死に行く人の心構え。どんな状況かによっても異なるでしょうが、いかなる宗教も死んだらエンマ大王(仏教的に)が待っているから、心して死ぬようになんて言いませんよね。
ゆえに、死後、安心なる境地が待ってますとなります。


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