念仏と座禅
何度も質問失礼いたします。
私は現在、毎朝念仏(浄土真宗の勤行)をしているのですが、最近座禅も少し始めるようになりました(座禅会に参加したことがあり、座り方はある程度心得ています)。念仏すると心がすっきりして良い気分になりますし、座禅をすると翌朝の目覚めがすっきりして、健康に良いように思います。
そこで質問なのですが、念仏と座禅は両方行っても構わないものなのでしょうか? それぞれの宗派の教えを勉強すると、念仏か座禅どちらかしか行わないようなので、両方やってもいいのか疑問に思い質問させて頂きました。
どうぞよろしくお願いいたします。
理屈っぽい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
証(仏智・覚り)と修(禅定・修行・行)の関係考察
心が「すっきりする」事が目的ならば、すっきりするものをどんどんしましょう。それで毎日の生活が生き生きとするならば完結なわけです。
しかし、もし「すっきりしない」から疑問に思い「すっきりしたい」とのご希望で何度もご質問いただいているならば、何かが違うのかもしれません。
『釈尊の説法を聞いて仏智を知見した(=証)仏弟子たちは、それにもかかわらず生涯をかけて修行しています。つまり「証」のために修行しているのでなく、「証」を知見しながら「証」の通りに生きられないので、「証」の通りに生きたいと願い修行したのです。「証」が不明のままの「修」はゴールが不明なままのマラソンのようなものです。
証(仏智・智慧)と修(禅定・修行)の関係について
道元禅師は「修証これ一等なり」「修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」と言い。
親鸞聖人は「念仏成仏」「念仏を信ずるは、すなわちすでに智慧をえて仏になるべきみとなるは」「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」と言います。
つまり、念仏や座禅をしてその功徳(修行をやったぞという満足感や理解したという自己肯定感)で証にいたるわけでなく、証にふれたがゆえに修にはげんだのです。』
以上、『「顕浄土真実証文類」解釈 小川一乘 著』より要約
座禅はわかりませんが、念仏はなぜ説かれたのか?自我によりすっきりしないのであれば、「自我を捨てて無我に至ってすっきりしなさい」という教えでよいのです。
しかし、そもそも自我もわからんすっきりせん我々に無我になりなさいといってもわからんのです。我を捨てられないのです。
だから仏(我をはなれた存在・世界)を念ぜよと教えられた。我は我では見れませんから、我を離れた処から我を見せてもらわなければなりません。(全身写真を撮るには離れた所からでないと撮れないように)
証に至るという事は「すっきりする」のではなく、「すっきりしない私」がはっきりすることです。それが「すっきりするはずだ」という我を掴んで離さないからわからんのです。
すっきりしない私だからこそ、「共に」すっきりできる場を願い存在を問うのです。
個人がすっきりするだけなら殺人犯がいようが嘘つきがいようが知らんもんです。そうではないのです。
「仏教は精神論(心の教え)ではなく存在論なのです by池田勇諦」
縁起と念仏と坐禅
前回の続きです。では、なぜ「心の教え」が個人の心の範囲ではないか?
お釈迦さまは悟りを「縁起」の教えとしてまとめて説きました。
全ての事物には原因と結果があります。過去・現在・未来にわたる原因と結果の網の目のような繋がりによってこの世界はできています。ゆえに全ての個は繋がりによって生じているのだから、個であると同時に全、全であると同時に個である。 そうであるなら、自分自身を大切にするためには、自分という結果に繋がる原因ひとつひとつを大切にするしかない…これが縁起思想です。
個or全で救われるのではなく、個=全によって人は救われるのです。
ここでこれを読んでいただければ、必ずしも死後の価値観をモチベーションにする必要がないことを感じていただけると思います。
http://hasunoha.jp/questions/12934
ここで阿弥陀信仰という他力によって自己を最小化し、個=全にするのが念仏、吉武さんのおっしゃる修証一等によって個=全にするのが道元禅です。
道元禅の証とは頭で悟りを解釈することではありません。お茶の一杯、そこらの石ころ一個にも顕れている真理のことです。真理とは何か?縁起です。原因と結果の繋がりです。
理屈を論ぜず、当たり前のことを当たり前に行じた時、ずっとずっと昔からスッタモンダあってこの石がそこに有るように、ずっとずっと昔からスッタモンダあってここに在る自分が顕れるのです。
「昔からスッタモンダあってここに在る」…これ、言い換えたら「阿弥陀さまのお導き」です。結局は同じなんです。ただ浄土宗・浄土真宗さんは末法思想を前面に出して「お釈迦さまから時間が経ちすぎて人は悟れなくなった。だから阿弥陀仏の浄土を目指そう」という表現の上塗りをしたからややこしい。
で、もっと言えば「修行して苦を克服する」のではなく、「苦が湧くプロセスの中で、苦になる寸止めのところで生きるのが修行」です。字数制限のため機会があれば…
最後に、「どの宗派にすべきか」ではなく、「誰に師事するか」が重要です。一連のご質問でお坊さんは宗派で決まらないと感じていただけたと思います。
そのお坊さんがどうかだけでなく、人間的な相性も大切です。宗派はその結果として付いて来ます。その意味でピンとくるまでは広く体験なさった方が良いですよ。
※むしろ独学の方が失礼ですが、去るなら追いません
両方やってもかまいません
両方やってもかまいません
一般の方が仏の教えに触れて、それを生活の中で実践したいというお気持ちが第一です。
その方法について、最初からあまり神経質になることはないと思います。
質問者からのお礼
百目鬼洋一様 ご回答誠にありがとうございます。今後も、両方やっていきたいと思います。
吉武文法様 ご回答誠にありがとうございます。吉武様の、「証に至るという事は『すっきりする』のではなく、『すっきりしない私』がはっきりすることです。それが『すっきりするはずだ』という我を掴んで離さないからわからんのです。 」というお話は、非常に勉強になりました。おっしゃる通り、今まで私は「すっきりしたい」という一念に駆られて色々と勉強してきましたが、それではいつまでたっても悩みが晴れることはないということに気づかされました。「すっきりしない私」のままで、なんとかやっていくしかないのだと思いました。
ただ、吉武様の「『証』が不明のままの『修』はゴールが不明なままのマラソンのようなものです。」というお言葉は、今の私に正に当てはまるように思いました。私は今まで、素人ながら仏教の様々な教えを勉強してきましたが、未だどの教えにも確信を持てずにいます。仏道を歩みたいと思ってはいるのですが、仏教には念仏があり、禅があり、最近ではテーラワーダの教えまで紹介されていて、どれが良いのか混乱してしまっている状態です。吉武様の言葉を借りるならば、正に「『証』が分からず右往左往している状態」であると思います。一度こうなってしまった以上、自分の納得できる道を迷いながら歩んでいくしかないのかもしれません。
いずれにしても、あまりお坊さまに質問ばかりするのは礼儀に反すると思いますので、今後は自分で考えていこうと思います。私の数々の質問に長々とご回答頂きまして、感謝しております。誠にありがとうございました。