回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「死にたい」という行為をやっていることに気づこう。
毎日手を洗う時に墨汁で洗うとします。
すると触るところみんな墨だらけです。
触ってびっくり、ああ、また墨をつけてしまった。
よし、もう一回手を洗おう。
そして、その時、洗うものがまた墨汁であるとまた墨だらけ。
触るところみんな真っ黒くろすけです。
洗う方法を改めなければいけまてん。
どうすればよいでしょうか。はい。水で洗うのです。
おなじように、死にたい、死にたい、と思ってしまうとします。
死にたいと「思えてしまう」のは別にいいのです。
ですが、その直後!…の分かれ道が、あなたの選択です。新しい手の洗い方もできるのですが、その時ご自身が「どっち」に行っているかを自覚しましょう。
「死にたい」という想いが出てきた後に、あなたは墨で手を洗うようなことを選択してしまっています。
そこでの選択を変えるだけでいいのです。
本当はその沼から這い上がりたい気持ちはある。
ところが人間の持つ独特の陶酔意識があなたにとっての安全地帯「死にたいと言いながら死なないでいる方向」を選択してしまっているのです。
仏教の戒律で第五不胡酒戒というものがあります。
酒におぼれるな、薬に溺れるな、という意味でもありますが禅宗では「自分を陶酔させるものに頼ってはいけない」と読み取ります。
自分を陶酔させるものは酒や薬だけでしょうか。いいえ。アイドルだって、恋だって、過食だって、負の思考思考、◌◌だって陶酔なのです。不確かなものを頼りにするからです。
私も死にたいと思ったことがありましたが、死にたいという状態は実は一種の自己陶酔状態なのです。私の時は自分悲劇のヒロイン状態でどん底に落ちていました。そしてそこから抜け出せない。無限の負のループ。それは自分の自己陶酔精神状態でした。
そこを見極めて、そのベタベタな気持ちを断ち切るのです。
病んでいる状態ですと「でも、こんな体になったのは自分のせいだ。」とさらに墨で手を洗い始めてしまうのです。
ああ、坊さんに指摘された。こんなことも分からない自分が嫌だ、と墨で手を洗っているのです。
ああ、変えたくても変われない。とまた墨で手を洗っているのです。
そこがループポイントなのです。そこでいつも墨で手を洗っているのです。
そこを深呼吸して反応を変えればいいのです
そこが❝直後の分かれ道❞です。
「もう、そっちに行かないを選択する。」とNOを突き付けるだけでいいのです。
まずは何より心身とものご快復を
あんず様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
結果は因縁(原因と条件)により成り立っております。
自分だけが原因で、しかも自分だけが条件であると考えてしまうのは、極端な偏見であります。
あまり、自分のせいであるとお責めになられ過ぎないで下さいませ。
皆、それぞれ弱く、不安定な存在であります。それでも生きていけているのは、色々な周りの支えや助けがあるからでございます。
その支えや助けは、皆お互い様、無理せず、あまり頑張ろうとされずに、周りを頼られて、できないことはできないと助けを求められて下さいませ。そして、またできることで、あるいは、できるようになったらにて、助けや支えを求められたら、応じられることがあればどうか応じてあげて下さいませ。
どうか今は無理せず、頑張り過ぎないように、まずは何より心身とものご快復を。お幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌