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死にたい、そう思ってしまう

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有り難し有り難し 17

この体になったしまったのは自分のせいで、自分が悪いのは分かってる。
そんな自分を許せなくて、死んでしまいたいと思ってしまう。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「死にたい」という行為をやっていることに気づこう。

毎日手を洗う時に墨汁で洗うとします。
すると触るところみんな墨だらけです。
触ってびっくり、ああ、また墨をつけてしまった。
よし、もう一回手を洗おう。
そして、その時、洗うものがまた墨汁であるとまた墨だらけ。
触るところみんな真っ黒くろすけです。
洗う方法を改めなければいけまてん。
どうすればよいでしょうか。はい。水で洗うのです。
おなじように、死にたい、死にたい、と思ってしまうとします。
死にたいと「思えてしまう」のは別にいいのです。
ですが、その直後!…の分かれ道が、あなたの選択です。新しい手の洗い方もできるのですが、その時ご自身が「どっち」に行っているかを自覚しましょう。
「死にたい」という想いが出てきた後に、あなたは墨で手を洗うようなことを選択してしまっています。
そこでの選択を変えるだけでいいのです。
本当はその沼から這い上がりたい気持ちはある。
ところが人間の持つ独特の陶酔意識があなたにとっての安全地帯「死にたいと言いながら死なないでいる方向」を選択してしまっているのです。
仏教の戒律で第五不胡酒戒というものがあります。
酒におぼれるな、薬に溺れるな、という意味でもありますが禅宗では「自分を陶酔させるものに頼ってはいけない」と読み取ります。
自分を陶酔させるものは酒や薬だけでしょうか。いいえ。アイドルだって、恋だって、過食だって、負の思考思考、◌◌だって陶酔なのです。不確かなものを頼りにするからです。
私も死にたいと思ったことがありましたが、死にたいという状態は実は一種の自己陶酔状態なのです。私の時は自分悲劇のヒロイン状態でどん底に落ちていました。そしてそこから抜け出せない。無限の負のループ。それは自分の自己陶酔精神状態でした。
そこを見極めて、そのベタベタな気持ちを断ち切るのです。
病んでいる状態ですと「でも、こんな体になったのは自分のせいだ。」とさらに墨で手を洗い始めてしまうのです。
ああ、坊さんに指摘された。こんなことも分からない自分が嫌だ、と墨で手を洗っているのです。
ああ、変えたくても変われない。とまた墨で手を洗っているのです。
そこがループポイントなのです。そこでいつも墨で手を洗っているのです。
そこを深呼吸して反応を変えればいいのです
そこが❝直後の分かれ道❞です。
「もう、そっちに行かないを選択する。」とNOを突き付けるだけでいいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

まずは何より心身とものご快復を

あんず様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

結果は因縁(原因と条件)により成り立っております。

自分だけが原因で、しかも自分だけが条件であると考えてしまうのは、極端な偏見であります。

あまり、自分のせいであるとお責めになられ過ぎないで下さいませ。

皆、それぞれ弱く、不安定な存在であります。それでも生きていけているのは、色々な周りの支えや助けがあるからでございます。

その支えや助けは、皆お互い様、無理せず、あまり頑張ろうとされずに、周りを頼られて、できないことはできないと助けを求められて下さいませ。そして、またできることで、あるいは、できるようになったらにて、助けや支えを求められたら、応じられることがあればどうか応じてあげて下さいませ。

どうか今は無理せず、頑張り過ぎないように、まずは何より心身とものご快復を。お幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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