人は何故不安になるのでしょう
先が見えないからなのか、人は不安になりますね。
写経をして心を落ち着かせても、寺社巡りをして自分の叶える事の意志を神様や本尊様にお願いしても不安は、消えません。
今がまさにその時なのです。
この不安は、どうしたら良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
考えれば不安になります
Rikaさん、はじめまして。
人は何か心配事があれば不安になるものです。
でもそれは、先のことを考えてしまうから起こることで、今あることではないはずです。
人は先のことに対して身構えれば身構えるほど、まだない事をどんどん大きく膨らませます。
昔から「案ずるより産むが易し」といいます。
賢い人ほど、頭で考えて行動してしまいます。
まだここにないものを想像しても、それが現実になるとは限りませんし、最近よく言う「引き寄せの法則」と同じように、不安は不安の中にある現実を呼び寄せます。
不安に思っている頭の中の想像を、知らず知らずのうちに行動にや態度に表してしまうからです。
今あることだけを考える事が、不安にならない近道です。
目の前に物事だけの集中しましょう。
不安な自分を許すと楽になる
私もひどく不安になる性質で、しかも胃が痛くなります。今はかなりマシになりましたが、学生の頃は宿題も試験もなく、義務や目的といったものが何も無いときでさえ、何かに追いかけられているような焦燥感がありました。当時の私はその不安を勉強やアルバイトにぶつけました。でも、どんなに頑張っても得体の知れない不安は不安のままでした。
やがて仏教の勉強をし、そして修行道場で生活をするにようになりました。修行生活をしたからと言って不安は消えませんでしたよ。むしろ修行の初期段階はいったん心身共にドン底まで突き落とされますから、いつも暗澹たる気分でした。
でも、修行の中である時気付 いたのです。(あれ?そういえばお経に出てくるお釈迦様って、悟った後でもしょっちゅうマーラと出会ってるなぁ…マーラと出会って、詩を読んで退散させるのが水戸黄門の印籠みたいなお決まりパターンじゃないか…マーラって煩悩の暗喩でしょ?ダメじゃん!
………いや、違うんだな。悟ったお釈迦様も、苦や不安はあったんだ。悟りって人として不感症になることとは違うんだ。お釈迦さまでさえ不安だったんだから、これが自然なんだ!)それから私はだいぶ楽になりました。
江戸時代の禅僧・良寛さんの言葉にこんなのがあります
>災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ、災難をのがるる妙法にて候
不安を克服しようと努力すれば楽になるので はなく、不安な自分を許してしまうことで、きっと楽になれるはずです。
現実でないことを思いの上で引き寄せるから
苦しまないための処方箋
あなたは先の不安の事で悩んでおられるようですが、それは今、目の前に実際に来ているのでしょうか?現実にそうなっているのでしょうか?
いまだ来たらぬことを頭の中で描いて、現実とごちゃまぜMIXさせてしまっている精神状態があなたのお悩みの状態です。
実際に起こってから嘆くならまだしも、起こらぬ内から嘆くのは身に毒です。
・ああ、地震が起きたらどうしよう。
・ああ、ローンが払えなかったらどうしよう。
・ああ、病気になったらどうしよう。
前回の質問でローンが心配ということでしたが、勿論、備えあれば憂いなし、¥も沢山備えあればウレシ―ナです。
ですから、出来る限りのことをする他ありません。
ですが、あなたが苦しまないために一番ご自分に目を向けるべきことは、
まず、アリもしないことを、自分で想像、臆測、妄想して、今の目の前を台無しにしてしまっていることです。
「臆」という字を、学んでみてください。
臆する、臆病、臆測…。
そこに恐れを交える思いです。
恐れや不安は、無知によって生まれます。ワカラン、ということからです。
何故わからないのか。それは、その時になっていないからです。
でも、その時になってみないと分からん、ということは分るはずです。(^<^)
不安、恐怖、最悪の事態は、自分の思いの中での想像が生みだしたものです。
ならば怖れずに、明確にすることです。
実際にあといくら必要であるかを計算し、あなたが働かなくてはならないようならば、今月中にも働く。
思い煩うより行動に移せばよいのです。
思いというものは、いくら何万時間思っても、髪の毛一本ですら動かすことはできません。
今すぐ、紙とペン、計算機を用意して、定年後、月々いくらあれば足りるのかを明確にして、具体的に何をするべきであるかとはっきりさせましょう。
不安の元は?
問答を拝見いたしました
しかし不安があるとの事ですが、それが何なのか書かれておりません。
漠然とした不安なのなら、まずはその不安がどこから来るのか探すことから始めてはいかがでしょうか。
諦めると言う言葉がありますが、全てを明らかにする言う意味があります。
一度不安の元を探してみてください。
これは医者が病気を探すようなものです。原因が解れば対応はできますが、漠然としている間は対応も無数にありそれだけで、気が滅入ってしまいます。
不安の元もどうすれば良いのかの答えはRikaさんの心の中にすでにあるはずです。
よく探してみてください。
もし不安の元が解っているなら差し支え無ければ教えてください。
その時は、どうすれば良いのか一緒に探しましょう
「不安定」がこの世の本質である
Rika様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
さて、実は、「不安」というのが、この世の本質、性質としてございます。
逆に「安定」は、この世において今のところあり得ないというものになります。
これは何故かと言いますと、そもそもこの宇宙の始まりである「ビッグバン」が「不安定」(相反する超素粒子同士の衝突のアンバランス)より始まってしまっているからでございます。
その不安定、アンバランスであるがゆえに、その後も様々なあり様が展開されていくこととなりまして、拙生もRika様も、地球上、宇宙上の全てのものたちも今、このように存在することができています。
つまり、「不安定」・「アンバランス」でないと、私たちは存在しえてはいなかったということになります。
このことを仏教的に申しますと、「無常」や「無我」、「空」、「無自性」、あるいは「縁起」として説明することになりますが、ひとまず難しいことは置いておいて、とにかく、「不安定」であるからこそ、原因、条件、結果という「因果」、「因縁果」の流れというものも成立しているのでございます。
話を少し戻しまして、私たちの心が「不安」になるのも、要は、この世の本質・性質を理解していないことに起因し、どうしても「安定」を求めてしまう、「安定」がほしいと望んでしまうところにあります。
この「安定」というものを仏教用語的に置き換えますと「実体」や「自性」などとして、「永久永遠に変わらないもの」、「独立自存なるもの」と言ったものになってしまうのですが、もし「安定」ということがあるのであれば、それは何も変化することのない無機質な世界、永遠に全てが止まってしまっている動かない世界、または、無なる世界であって、そんな世界をRika様は逆にどのようにお考えになられますでしょうかね・・
もっとも、そんな世界はあり得ない想像上の架空の世界であって、現実世界は、「不安定」が本質であり、まずそれを認めた上で、逆に不安定であるからこそ、色々と変化もしていくし、させてもいけるものだと理解して頂いて、仏教的には、より善い因縁による、より善い流れに乗って、やがては悟り・涅槃という結果へと向かって参りたいということになります。
川口英俊 合掌
先を心配したらきりがない。あなたは今を生きているのですよ
人は未来や過去を心配して、それを考えれば考えるほど、堂々巡りでいいことはなにもありません。
写経も行じているときは、何も考えずにひたすらに写経に打ち込むことができるかもしれません。大切なことは、写経をしていない時も、写経のときと同じように、目の前のことにひたすらに打ち込みます。そうでなくては写経の意味がありません。
心を落ち着かせるだけではその一瞬で終わりです。只目の前のことに一生懸命に打ち込んでください。何も考える必要がなくなります。現実はその瞬間目の前にあります。
質問者からのお礼
お坊様方、質問にお答えくださりありがとうございます。
不安の答えは、早ければ明後日に出ます。
悪い答えが出れば何人かの方にご迷惑をかけることにもなりご相談致しました。
しかし皆様のお答えを読んで私は、良い方の答えが出ると信じることにしました。
今日も日々の生活を送り、写経も行います。
本当にありがとうございます。
これからもお寺にもお参りに行き、自分が何かを行なうための意志をご本尊様に伝えます。