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努力について

回答数回答 4
有り難し有り難し 30

よろしくお願いいたします。
道徳なんかですと、「努力は必ず報われる」というな感覚だと思いますが、仏教ではそのような場面に関しての考え方はございますか。

例えば、高校、大学受験や難関の資格試験等に関してです。
特にこういった合格、不合格のはっきりしたものでは、不合格になり、尚且つ諦めてしまえば何も残らないと思っております。
高校、大学受験は期限があるものなので仕方ない部分もあると思いますが、
難関の資格試験については、諦めても努力は忍耐として精神に残る。諦めてもそれまでの知識は役に立つ。
というような言葉は、最初の決心を諦めた後ろめたさをごまかすための、気休めや言い訳に思えてしまうのですが。

仏教は未来をつかさどるものではないと伺った事がありますが、努力は実るも実らぬも結局、自分次第の能力のみでしょうか。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二元論で考えない

まず、本来、僧侶は生産活動をしません。結果を求めれば苦が生まれるからです。
満足な結果が得られなかったら当然辛いですよね。でも、満足いく結果が得られたとしても、その結果に愛着が生まれ、結局はその愛着がいつか苦になります。だから満足と不満足は表裏一体で、どちらも苦につながる…その原因は結果を求める所にある!と、これが仏教の前提です。

上座部仏教ではこの考えが特に顕著で、出家と在家(非出家)を明確に分けています。スマナサーラ長老はお医者さんに「医療は殺生?どういう気持ちで治療にあたればいいでしょう?」と聞かれたところ、「医師には僧侶のような生き方はできません」とハッキリ答えています。まずはこういった考え方が仏教の根底にあるとご理解ください。(大乗仏教は在家も救われることを証明してやる!と言って発展したので生産活動とハイブリッドした面がある)

「悪因悪果、善因善果」は?と思われるかもしれませんが、民間レベルではあくまで「頑張りましょう」という道徳論です。仏教思想としては無我が前提ですから利害のような報いの話ではありません。

じゃあどうするか?一瞬一瞬の今(刹那滅)を一所懸命に生きることで、以前にも以後にも目をつけないんです。そうすれば苦が生まれる地雷を自然と踏まずに生きることができるという考え方です。

では一般社会では?
私は「人による」と思います。個々人の話であれば、難関の資格を取れても取れなくても今ある物で精一杯頑張るしかありません。食えなくても上を目指すか、まずは食っていくかは自由です。どっちが正しいかはキノコ・タケノコ戦争だと私は思います。
でも、社員や家族…誰かを食わせていかないといけない立場になると、結果は必須なんですよね。それはそれで道筋は何パターンもあるのでしょうが、個々人とは別軸の話になるでしょう。
そう考えると答えは1つじゃないんですよね。周囲の環境で変わります。
つまり人は自分1人で存在しない。周りとの繋がりを含めた上での流動的な自分が、本当の自分…

早い話が、他人を評価するのに方程式に当てはめるのではなく、その人自身をしっかり観察し、接して良さや課題を考えましょう。そして適材適所を考えましょうということです。
能力なんてジャンケンだというのが私の信条です。そこが認められないとせっかく実っているものも腐らせてしまいます。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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努力すれば努力したということがある

何をするにしても努力という行為そのものが結果です。
演奏ならば、努力して演奏すれば、努力して演奏したということが真実。
渾身の力でひいたピアノの一音が、たまたまズレてしまえば、ズレたという事がおこなわれる。
理にかなっていない間違ったことを努力すれば、理にかなっていない間違ったことを一生懸命努力したという結果がある。
仏道は、渾身の行いです。
うまくいくいかないはあとの事。
ヒットするしないは、あとの事。
一心に、突き進んでいれば、必ず、そこを、まっすぐに、進んでいる。
そこに、結果、判断、善し悪し、〇×、善し悪しの評価はそこに入る余地すらないのが、仏道です。
うまくいっても、いかなくても、その通りであるということが、仏道です。

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おきもち

努力は何かしらの結果が出る

indigoさま

努力についてですが、まず「報われる」という定義によって違うと思います。

受験であれば受かることでしょうか。報われるというのは努力した分だけ身になる,何かしらの力がつく,結果がでる。ということでしょう。
因果の法則にのっとって結果が出るというだけでしょう。

話は違いますが良く夢を見よと世の中でよく言われています。夢を持っていないのは良くないことのように。

私は将来像ばかり考えて足元がおろそかになってしまうことに問題があるように思います。今できる努力をすれば、その分だけ結果は出るし,時として周りも認めてくれる。
周りに認められようと努力することは本質と少しずれるように感じます。何も考えずただただ努力すればいいのではないでしょうか。

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おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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全てはご縁です。

努力が自分にとっていい結果をもたらすかどうか、それら全てご縁です。
だからどうなるか分かりません。
努力すれば何事も叶うならば悩みはありません。
全ての事象は、多くの縁が重なり合って起こりますから、私の側ではどうにもできないことがあります。

当然、この世の中は努力をしなければ結果が得られないものが多いでしょう。
しかし、努力をしたからと言って結果が付いてくる訳ではありません。

そして、本当に私たちに必要なものは何でしょうか?
それを考えたならば、本当の意味での「幸せ」は私の努力では得られないものだと思います。
仏様の智慧を聞くならば、また違った視点で人生を見る事ができると思います。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ