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努力について

回答数回答 4
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よろしくお願いいたします。
道徳なんかですと、「努力は必ず報われる」というな感覚だと思いますが、仏教ではそのような場面に関しての考え方はございますか。

例えば、高校、大学受験や難関の資格試験等に関してです。
特にこういった合格、不合格のはっきりしたものでは、不合格になり、尚且つ諦めてしまえば何も残らないと思っております。
高校、大学受験は期限があるものなので仕方ない部分もあると思いますが、
難関の資格試験については、諦めても努力は忍耐として精神に残る。諦めてもそれまでの知識は役に立つ。
というような言葉は、最初の決心を諦めた後ろめたさをごまかすための、気休めや言い訳に思えてしまうのですが。

仏教は未来をつかさどるものではないと伺った事がありますが、努力は実るも実らぬも結局、自分次第の能力のみでしょうか。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二元論で考えない

まず、本来、僧侶は生産活動をしません。結果を求めれば苦が生まれるからです。
満足な結果が得られなかったら当然辛いですよね。でも、満足いく結果が得られたとしても、その結果に愛着が生まれ、結局はその愛着がいつか苦になります。だから満足と不満足は表裏一体で、どちらも苦につながる…その原因は結果を求める所にある!と、これが仏教の前提です。

上座部仏教ではこの考えが特に顕著で、出家と在家(非出家)を明確に分けています。スマナサーラ長老はお医者さんに「医療は殺生?どういう気持ちで治療にあたればいいでしょう?」と聞かれたところ、「医師には僧侶のような生き方はできません」とハッキリ答えています。まずはこういった考え方が仏教の根底にあるとご理解ください。(大乗仏教は在家も救われることを証明してやる!と言って発展したので生産活動とハイブリッドした面がある)

「悪因悪果、善因善果」は?と思われるかもしれませんが、民間レベルではあくまで「頑張りましょう」という道徳論です。仏教思想としては無我が前提ですから利害のような報いの話ではありません。

じゃあどうするか?一瞬一瞬の今(刹那滅)を一所懸命に生きることで、以前にも以後にも目をつけないんです。そうすれば苦が生まれる地雷を自然と踏まずに生きることができるという考え方です。

では一般社会では?
私は「人による」と思います。個々人の話であれば、難関の資格を取れても取れなくても今ある物で精一杯頑張るしかありません。食えなくても上を目指すか、まずは食っていくかは自由です。どっちが正しいかはキノコ・タケノコ戦争だと私は思います。
でも、社員や家族…誰かを食わせていかないといけない立場になると、結果は必須なんですよね。それはそれで道筋は何パターンもあるのでしょうが、個々人とは別軸の話になるでしょう。
そう考えると答えは1つじゃないんですよね。周囲の環境で変わります。
つまり人は自分1人で存在しない。周りとの繋がりを含めた上での流動的な自分が、本当の自分…

早い話が、他人を評価するのに方程式に当てはめるのではなく、その人自身をしっかり観察し、接して良さや課題を考えましょう。そして適材適所を考えましょうということです。
能力なんてジャンケンだというのが私の信条です。そこが認められないとせっかく実っているものも腐らせてしまいます。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

努力すれば努力したということがある

何をするにしても努力という行為そのものが結果です。
演奏ならば、努力して演奏すれば、努力して演奏したということが真実。
渾身の力でひいたピアノの一音が、たまたまズレてしまえば、ズレたという事がおこなわれる。
理にかなっていない間違ったことを努力すれば、理にかなっていない間違ったことを一生懸命努力したという結果がある。
仏道は、渾身の行いです。
うまくいくいかないはあとの事。
ヒットするしないは、あとの事。
一心に、突き進んでいれば、必ず、そこを、まっすぐに、進んでいる。
そこに、結果、判断、善し悪し、〇×、善し悪しの評価はそこに入る余地すらないのが、仏道です。
うまくいっても、いかなくても、その通りであるということが、仏道です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

努力は何かしらの結果が出る

indigoさま

努力についてですが、まず「報われる」という定義によって違うと思います。

受験であれば受かることでしょうか。報われるというのは努力した分だけ身になる,何かしらの力がつく,結果がでる。ということでしょう。
因果の法則にのっとって結果が出るというだけでしょう。

話は違いますが良く夢を見よと世の中でよく言われています。夢を持っていないのは良くないことのように。

私は将来像ばかり考えて足元がおろそかになってしまうことに問題があるように思います。今できる努力をすれば、その分だけ結果は出るし,時として周りも認めてくれる。
周りに認められようと努力することは本質と少しずれるように感じます。何も考えずただただ努力すればいいのではないでしょうか。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

全てはご縁です。

努力が自分にとっていい結果をもたらすかどうか、それら全てご縁です。
だからどうなるか分かりません。
努力すれば何事も叶うならば悩みはありません。
全ての事象は、多くの縁が重なり合って起こりますから、私の側ではどうにもできないことがあります。

当然、この世の中は努力をしなければ結果が得られないものが多いでしょう。
しかし、努力をしたからと言って結果が付いてくる訳ではありません。

そして、本当に私たちに必要なものは何でしょうか?
それを考えたならば、本当の意味での「幸せ」は私の努力では得られないものだと思います。
仏様の智慧を聞くならば、また違った視点で人生を見る事ができると思います。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

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