世界が荒れている
世界ではイギリスのEU離脱、トランプ氏の大統領就任からの大統領令連発、それに反対デモを起こす人々
日本では芸能人、有名人を執拗に叩くSNSユーザー、差別や平等にやたらと敏感になる人々、「日本死ね」が流行語にランクイン
異常気象の数々、もうすぐ来ると言われている地震の恐怖
少し古いニュースもありますが、挙げると霧がありません
この先起こることに物凄く悪い予感がします
みんなが自分さえ良ければと考えているように思えます
実際自分だけが恵まれても幸せとは感じない筈なのですが…
募金をした芸能人に売名と言い、
不倫した芸能人を総叩き
自分は責任が無い匿名のネットで発言する
誰だって叩けば埃は出るものでしょう?
子供にイジメは駄目とか言うけれど、これも集団イジメだと思います
当然、悪事を働く芸能人にも非があると思いますが、今の風潮はやり過ぎだと思います
…そう言う自分も今匿名の場で書き込みをしていますが
所謂セクハラ、パワハラも過剰だと思います
当然、改めなければいけない差別問題も沢山ありますが、
弱者を守ってくれるのは強者の温情であり、当然のことでは無いです、自分の身は自分で守らないといけないと思います
こんな世の中をどう生きればいいでしょうか?
何を思って毎日を過ごせばいいでしょうか?
こんな偉そうなことを長々と書いてしまいましたが、間違っているのは自分なのでしょうか?
世の中に対して自分は何ができるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
マクロの見方とミクロの見方
仰ることはすべてごもっともだと思いますよ。
日々のニュースを見ていると、不安な気持ちになりますよね。
インターネットの普及により、世の中のあり方は大きく変わりました。
多くの人が気軽に世界のニュースの文字情報を手に入れ、また同時に誰かの意見を沢山目にします。
しかし、世界とは一体なんでしょうか。
マクロで見れば、宇宙の中のちっぽけな星に蠢く生物の動きに過ぎません。
お釈迦さまは「娑婆世界は火事の家の如し」と喩えられましたが、本来社会とは平和ではないところなのです。
荒れているように思えるのは、平和が当たり前と思っているからです。
ミクロで見れば、自分の目から入った情報を脳が処理しているものです。
極端にいえば、情報をすべて遮断し、晴れた日の空を眺めれば「今日はいい天気で素晴らしい日だなぁ」で終わるんです。
この世は地獄でしょうか、それとも天国(浄土)でしょうか。
祖師は「心の善悪による」と答えました。
心次第で、この世はどちらにも見えるのです。
【自分】は、自分が関わる人(ご縁のある人)のみ影響を与えることができます。
「自分ができることは」と問われれば、ご縁のある人達と気持ちよく接すること、喜んでもらうこと、励まし合い助け合うことのみです。
ご縁のある人に与えた影響は、またその人がご縁のある人たちに影響を与えます。
ある意味では世界に影響を与えるとも言えましょう。
ですから、どうか心を善に保って欲しいと思います。
そして悲観的になりがちなこの情報化社会において、「いや、世の中も捨てたものじゃないんだよ」と自信を持って誰かに説ける人になってもらえたらと思います。
心の問題にするのはあぶない。
お若い方とお見受けしますが、現代社会を見つめる鋭い視野をお持ちで、とても頼もしく聞かせていただきました。
ただ、字数の都合でしょうが、世界を、社会を、隣の方を、私を悩ませる諸問題を「正しく」見つめるためには、もう少し慎重で冷静な分析が必要です。
私自身も日々起こる出来事のひとつひとつに正直うんざりしていますが、
そんな私も周りと一緒に思考停止してしまえば、この煩悩(わずらい、悩み)の流転(繰り返し抜け出せない苦しみの世界)をただ過ごすばかりです。
端的に、いまを生きる私たちの生きるヒントをご紹介します。
◆メディア、特に国内メディアは人の不幸も混乱も対立も、視聴率と話題性でしか取り上げない。(どんな深刻な問題も面白おかしく、真剣に苦しむ人の声は視聴率が取れないので取り上げない。)
メディアリテラシーは、お釈迦さまが示された「八正道」(詳しい意味を調べてみて下さい)を拠り所に、何でもかんでも単純化させないで、一度テレビやインターネットの裏側を想像し、疑ってみてください。
◆考えることを放棄しない。距離が人の共感を阻みます。苦しみや悲しみの身近に飛び込んでみる。
あなたが雑音から耳を塞いでも、それが止む訳ではありません。風邪をひけば、自身の気の持ちようを悔やむのではなく、さっさと風邪薬を飲むなり、お医者さんに罹って下さい。指に刺さったトゲは、取り除かなければ刺さったままです。(取り除いてもしばらく痛みは続きますけどね)
ご回答の諸師が心の持ちようを考えてと諭されています本当のおこころは、「とりあえず気の持ちよう、心の持ちようだから、気分転換したらいいですよ」ということではありません。
仮にいじめに遭って助けを求める子に、「心の問題だ」と答えたら、その子はいよいよ追い詰められます。なぜなら、原因は自分の心だ、自己責任だと言われているのに等しいのですから。
この世界の諸問題を丁寧に見ていくと、今すぐの特効薬はないかもしれませんが、そこに私やあなたと同じように日常を安心して暮らしたいと願うひとりひとりのいのちの存在が見えてきます。
セクハラもパワハラも色々な差別も、弱者が強者に媚びて従えば解決するという考えは、自分が「強者」や「第三者」であれば、痛くもかゆくもないでしょう。
でも、私もあなたも自分自身が「弱者」になることはないのでしょうか。
「裸足と靴」
なすび様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人間界は、まさに煩悩渦巻く世界・・おっしゃられているように、一歩引いてみれば、まあなんと浅ましいことの多いことか・・
とにかく、仏道は、まずこの煩悩の世界からの出離を望むことから始まります。
まさに、なすび様は出離の心を持たれたように存じます。是非、三宝への帰依から、仏教の修習へと入られて頂けましたら有り難くに存じます。
さて、日顕様のおっしゃられていることと同じになりますが、このような世界における心のありようにつきましては、よく使う譬えなのですが、「裸足と靴」として以下のようにお話をすることがあります。
簡単には、裸足であれば、どこへ行っても痛いですが、だからといって、全ての地面に痛くないように布や革を敷き詰めることなどは、とてもできませんよね。
私たちのできることなど所詮のところ限られています。
しかし、裸足に靴を履かせてやればどうでしょうか。
そうすればどこへ行っても痛くなく過ごせますよね。まるで全ての地面に布や革を敷き詰めた如くに。
この例えは、「心」のありよう次第においては、この世界全てを変えるのとほとんど等しくなることがありますよ、ということを表しています。
心が裸足同然であれば、あれやこれやと悩み苦しむことばかりになりますが、しっかりと自分の心に仏法という革で防御してあげれていけば、迷い苦しむことも無くなっていくことになりますよ、ということになります。
是非、これを機会に仏教を少しずつでも学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌