お墓にご先祖様はいるんですか?
こんにちは。いつも楽しく・癒されながら拝読しています。
先日、お彼岸という事で、久しぶりに祖父と祖母のお骨があるお墓にお墓参りに行ってきました。
祖父母のことは大好きで、亡くなって7年くらいたつ今でも家族団欒の席で祖父母の話が持ち上がります。
仕事が忙しくてなかなかお墓参りに行く機会は作れないのですが、お墓の前で手を合わせれば、「おじいちゃん、おばあちゃん、家ではこんなことがあったんだよ」とか、たまには「お母さんがお父さんの所為で滅茶苦茶ふてくされているのでどうにかしてください」とか願ってみたりします。なかなか無茶ぶりをしているかなと自分で思ったりもします(笑)
さて、そんなお墓参りですが、このサイトや他のサイトを見ていて、ふと疑問が浮かびました。
宗派によっても異なるのかもしれませんが、亡くなってすぐ、(少なくとも祖父母の場合の7年より前には)ご先祖様は生まれ変わってしまって、もう元々の家族のことは忘れて違う人生を歩んでいるものだという考え方があるのを知りました。
それでは、お墓にいって何かを報告しても、報告しているつもりの相手はそこにいないのでは?と思うのですが、当然一方通行なのでしょうか?
それに、私はお盆やお彼岸の機会でもお墓にお参りに行けない時は、せめて仏壇に手を合わせるのですが、その場合仏さまは仏壇とお墓を生きている人が手を合わせる都合に合わせて瞬間移動しなくてはならないのでは…!?
是非その仕組みがどうなっているか教えてください!
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
山川草木 、皆ことごとく成仏す
秀逸なツイートを引用します。
>仏壇のじいちゃんに挨拶した?って出る前にマッマに言われて、仏壇に挨拶したらいいのか墓に挨拶したらいいのか…って言ったら、
「仏壇はタブレット、墓はデスクトップ、おじいちゃんはクラウドに保存されている。今からデスクトップをアップデートしに行く」と言われてなんか納得した。
http://spotlight-media.jp/article/289558575955246118
さて、私は「死んだら今現在のこの世界に帰る」と説きます。俗に言う「土に還る」というやつですね。詳しくはコチラ↓
http://hasunoha.jp/questions/14941
簡単に言うと、この世界というクラウドに対して、端末に当たるものがお墓やお位牌というわけです。これは本当に秀逸なツイートです。
昔の人は土地を3つに別けて考えました。ノヤマ(野山)、ムラ(村)、サト(里)です。ノやヤマは自然の領域、ムラは人の領分、サトはその間のグレーゾーンつまり緩衝地帯です。この中でお墓はサトに作られました。
そしてお墓参りをしたらお供え物をしますでしょう?最近の街中の霊園は「供物はお持ち帰り下さい」という形ですが、昔ながらの田舎のお墓では持ち帰りません。「鳥やアリたちが草葉の陰のご先祖さまに届けてくれる」と言われているからです。
つまり供物は栄養分を人間社会から自然界へ還元するシステムなのです。自然界に還元するから、それがそのまま自然界に帰ったご先祖さまへの供養になる。そのためお墓は自然界への門でありデスクトップ、お位牌はより日常的にお世話するための手元供養、つまりタブレットなのですね。
ちなみにお仏壇にお供えするご飯から数粒程度のお米を庭から自然界に施すという昔ながらの作法があります。禅の道場ではお米なら7粒以下、麺なら銭の半径の長さ以下と決まっています。自然を大切にすることと餌付けの弊害のバランスを取ったらこうなったのでしょう。
さて、晴れたら晴れたなりの世界、雨が降ったら降ったなりの世界、山も川も草木も、今となってはみなお祖父さまお祖母さまの家です。でも世界全体、宇宙全体が家なら漠然としてて、つかまえようがない。だからデスクトップやタブレットを有効活用して、シームレスにお祖父さまお祖母さまと繋がりましょう。
Thanks Buddha 合掌
仏教では一生涯、この身心が覚知する事しかないと説く。
たとえば道元禅師のお位牌は曹洞宗寺院の数ほどありますから最低でも一万以上はあるでしょう。
お釈迦様の仏舎利も沢山の場所に分骨されていますね。
霊というのは日本では、亡くなった人がどこかに👻ぷかぷか浮かんでいるようなイメージを持つ人が多いようですが、霊とか、霊魂、魂、みたまとは、亡くなった人に対する本人の心の中の心象作用のことです。
そして、その例を見出すことが出来る頂相や位牌、掛け軸、墓石などが故人様を「まつる」「尊ぶ」ものです。ですから、沢山尊像や位牌がある人ほど偉人と言えましょう。
最近、うちの先祖さんの写真を見ていたらどことなく似てきたなぁと思ったことがありました。うちのご先祖様の尊像は実家の仏壇の間にあるのですが、ご先祖様のことを思い出したのは二日前のお彼岸の法事中でした。ご先祖さんは目の前にはいませんが、遺影が仏壇の間にありまして、お骨はお墓にあり、本堂にも位牌があります。会ったこともないご先祖様ですが、その写真は私の脳裏に刻まれていました。
念ずる処、いつでもどこでも心象作用としては現われるものです。
だからと言って、お墓も何もいらないという事ではなく、その方を尊び、同じ命を持って今の自分自身をこの世に存在させてくださった方を思い起こして供養することが出来る「場」を屋内と、屋外に持つ事で、家庭的に関わることが出来、オフィシャル性を持った関わりもできるようになるのです。反対に、私的に海に捨骨してしまったり、遺骨で私的な思い入れのグッズを作ってしまうと、その方を敬って供養したくてもできなくなってしまいますね。
霊魂はそれぞれの人の中の心象作用ではありますが、その方を敬う、敬愛の念を表す為にも尊像や遺影、位牌、墓地を作るのが日本人の宗教性なのです。
宗派によっても、お坊さんによっても違うでしょうね。
浄土宗の私としては、ご先祖様は普段は極楽浄土にいると思っています。
極楽浄土というのは仏様になるための修行をする場所なのです。
その修行の過程で神足通という力を得ることができるのです。この力はどこにでも一瞬で行くことができる力なのです。
また、同様に天耳通という力を得ることができます。この力はどんな遠くの声も聞くことができる力なのです。
ですから、お墓の前で手を合わせる時は、ご先祖様はあなたの声を聞いて一瞬でお墓を拠り所として、お墓に宿るのです。
また仏壇の時も同じです。お位牌を拠り所として宿るのです。
また何も無くても心配いりません。あなたの声はちゃんと聞いててくれますよ。
ですから、安心していつでもどこでも話しかけてくださいね。
真心
ミー様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
見えなくても、聞こえなくても、ご先祖様のことを思い浮かべて、真心を向けられましたら、その真心にご先祖様がおられるとお考え下さいませ。
ご先祖様のお陰様。有り難し。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまってすみません…!
ありがたく拝読させていただきました。
大慈様
わかりやすい説明ありがとうございました。
自分自身がコンピュータ関連に勤めており、タブレットにしろデスクトップにしろ身近なので、
より一層お墓やお仏壇に対する意識が高まりました。
>山も川も草木も、今となってはみなお祖父さまお祖母さまの家です。
最後にそういっていただけて、媒体に頼らざるともいつもつながっているように感じます。人が認識しやすいように形あるものがそばにあるのは、あいまいにふらふらしているよりずっと安心しますね。
もちろん、お墓やお仏壇の前にはこれからもたちますが、その場になくても、思い出すことは間違ってないなと少しうれしい思いです。
丹下 覚元様
まず最初の一文にて、そういえばそうだとその時に気が付きました。話がそれてしまいますが、沢山の象徴的なものがある方がえらいというのはなんとなくわかっていても、そういう方々に関しては概念というか、お墓やお位牌の数に何とも考えないものだなぁと…。ただ、だからこそ何かしらの象徴があればその人がいることに気が付くというのはもっともな話なのかなぁと思います。
>念ずる処、いつでもどこでも心象作用としては現われるものです。
供養する場を設けてあるというのはありがたいことだと思います。身近な人ならともかく、知らないのなら、多分常に自分を今ここに立たせてくれるたくさんのご先祖様がいることは思い出さないと思います。
聖章様
ぬくもりある回答ありがとうございます。
なくなった後修行をするというのはなんとなく聞いていたものの、そんなすごい修行をされるとは知りませんでした。神足通と天耳通。なにやらちょっと響きもかっこいいです(笑)
お墓で手を合わせても、お仏壇で手を合わせても、ちゃんと聞いていてくれると思うとほっとします。
本当はまだ少し切ないのです。思い出が美化されているところも確かにあるのかもしれないのですが、やっぱり何年たっても忘れられなくて。だから、安心していつでもどこでも話しかけてくださいね、というその言葉、大切にさせていただきたいと思います。
川口 英俊様
真心を込めて人に尽くすとか、真心をこめて作るとか、そのようなときにポンと使ってしまいますが、真心という言葉の意味を真剣に考えたことがありませんでした。川口様のコメントを見て、初めて自分でも調べたのですが、「偽りや飾りのない心。真剣につくす心。」と書いてあり、思いのままに素直に真摯にご先祖様のことを想うことの中にご先祖様がいるのかな、と感じました。
ご先祖様がいてこその今があることを常に持ち、また見えずともそばにいてくれるのだろうなと、何事もおかげさまと思いたいこの頃です。