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過去の過ちを後悔しています

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過去を振り返ると過ちや失敗ばかり思い返されます。
あの時ああすれば良かった、あの時こう言えば良かった、あの時の判断は間違えていた‥等、最近とても苦しみます。
いかに自分が未熟で無知でバカな判断しかできなかった事を悔いてしまいます。
昔の自分は流動的で人やその場の状況に感情的に流されてしまう所が多く、振り返ると勢いで様々な失敗を自ら選択してしまったと自覚してます。
過去のことはお釈迦様も悔やんだりし過ぎてはダメだと説法されたと本などで拝見し、私も頭ではそのように理解してるつもりですが、気づくと自分を責めすぎてしまいます。
そんな時は頭の中で自問自答を繰り返してばかりで、気づくと後悔の念にとらわれて、食欲も減ったりしてしまいます。
大きな過ちから小さな失敗まで数えたらキリがありません。
友人等と比べても私の過去の過ちは愚かな事が多いです。
私は家庭環境が複雑だったのでどこかでいつも孤独感を抱えていた事や人に裏切られた事などで、自暴自棄になりやすかったと思います。
しかし今になればどのような環境であれ、自分を守ったり大切にできなかった事や間違った選択ばかりだった事が悔やまれます。
何度、反省し懺悔してもまだ過去の過ちや失敗にとらわれてしまいます。
どのようにしたらこの苦しみから楽になれるでしょうか?
僧侶の方のアドレスを頂きたいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現実には、あなたは今を生きています

あなたのお気持ちの上では、過去を後悔→後悔してしまった自分を責める→こんな自分はダメだ
となってしまっているようですね。しかし、現実として、あなたは過去を生きる人ではありません。誰がなんと言おうと「今」を生きていらっしゃいます。

気持ちの上の考えの世界は過去を彷徨う姿です。心は、現実と大きくかけ離れているものです。それは記憶ともいうのかもしれませんが、そうしたことにとらわれず、「今」「現実」に目を向けたのがお釈迦様ではないでしょうか。現実の「今」という瞬間には、決して後悔や自責は存在しません。

今あなたが見ている風景には、後悔も自責も、悲観も何にもくっついていません。そのものがただ存在しているだけです。その現実のただの存在にあなたは思いをたくさん付け加え、現実をないがしろにしているのです。過去の記憶や思考の世界より現実世界を選択し、「今」をしっかり生きることが、そうした後悔から救われる道です。

お釈迦様はそうした道を見つけ悟りを開かれたのですよ。あなたの目の前に真実は存在しています。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

小野田寛郎さんの言葉

若い女性のあなたは小野田寛郎さんというご存じないかもしれません。フィリピンのジャングルのなかで日本兵として二十数年を生きていた方です。ご存じなければ、インターネット上でもかなりの情報が得られるので、調べてみてください。youtubeでお話を聞くこともできますよ。

この方は、日本の降伏を知らなかったので戦争が続いているものと信じ込んで、部下の方と三人で「敵」をかく乱するために戦われ、最後は一人になってしまわれました。

結果として、得たものは部下の方の「戦死」であり、罪もない地元の方たちを多数殺害した事実、そして本人が三十年弱の時間をジャングルで苦しい生活をつづけた、という事実です。

それについて、「後悔しているか」と問われると、「後悔はしていません。今を生きる力が減りますから」とおっしゃいます。常人なら、少なくとも私なら、フィリピンの人たちと米兵を三十人以上殺害しているのですから後悔しそうなものですが、「戦争が続いていると思っていたから仕方がない。自分がやらなければやられてしまう」と言い切られます。そちらの方は後悔してもよさそうなものですが、たしかに知らなかったのだから仕方がないことになり、罪にも問われていません。

さすがにそこまで真似る必要はないのですが、たしかに後悔することで今を生きる力が減ることは間違いありません。あなたもそう思いませんか。小野田さんはまた、「私は過去のことを振り返って、あのときああだったからと参考にすることはあります」とおっしゃいます。過去のことは今を生き、明日につなげる参考に以外のものではないということですね。

実は私もよく後悔します。しょっちゅう「あのときああしなければよかった」と思い、悔いない日はありません。だから私もこれを機会に生き方を変えますので、あなたも今を生きる力が減るような後悔はおやめになり、過去のことを明日につなげる参考資料として用いていきましょうよ。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

それは失敗ではない。

あなたはそれをまだ「失敗」であると損ねた評価をしているから苦しいのです。
「失敗」と評価、ジャッジを下すことが一番いけないことなのです。
それは、あなたにとって自分を戒めた貴重な経験であったと考えてみてください。
それは学びなのです。
勉強だったのです。
自分を向上させてくれるものだったのです。
薬だったのです。
大きな試練だったのです。
授かりだったのです。
人生のスパイスだったのです。
総じて、そう「すべき」ものなのです。
そうすればそこに失敗意識は生じません。
損失感も生まれません。
自責や後追いネガティブ意識は生まれません。
これを10回読み返してください。
多くの人は、この話の価値に気づかないと思いますし、失敗で悩んでいる方でないと効果はありませんが、この話の功徳は、あなたに今後人生で失敗があっても、失敗にならないという話なのです。
わたしは昨日も大切な茶器を落としましたが、それは、だただそれになっていました。
今やアロンアルファで接着して普通に使っています。
大きな学びでした。
追伸:凡下じゃねえんだけどな(笑)
それも失敗にせず学ぶべし、学ぶべし。
打ちなおして変換して、打つべし打つべし。
そうそう、あしたのジョーの、セコンドの、そうそう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

本当に苦しんでいたので僧侶の方々の文章を読んだとき涙が出ました。

邦元さん
私の苦しみが全て見透かしているかのように、その苦しみを解放するアドバイスをいただき大変有り難く思います。
邦元さんの文章を読み、いかに自分が過去や思考にとらわれ、現実の世界を見る事ができなかった事に気付きました。
重く苦しかった心が邦元さんの御言葉により心が軽くなりました。
大変大切な事を教えていただきました。
これからも何度となく読み返す機会を作り、一時的ではなく本当の意味で過去から卒業できるように頑張ります。
私の苦しみを救っていただき誠にありがとうございました。感謝しています。

凡下さん
凡下さんの文章を読み、自分がいかに失敗というものにとらわれ、自分を責め立てていた事に気付きました。
失敗したことを決してネガティブに全て捉えるのではなく学びや経験として捉えていく事の大切さを教えていただきました。
今だけではなく今後の人生においても役に立つ智恵をいただき、凡下さんの文章から沢山の励ましをいただきました。
大変大切な事を教えていただき、私の心の苦しみが軽くなりました。
誠にありがとうございます。感謝しています。

藤岡さん
小野田さんについてネットでいろいろと調べ、貴重なことを沢山知る機会をいただきました。
藤岡さんが小野田さんを通して私に大切な事を教えてくれました。小野田さんを例に出してわかりやすくアドバイスいただき、いろいろな面で学びがありました。
また藤岡さんのような説法をされる僧侶の方でも「悔いない日はありません」と言われ、あなたも今を生きる力が減るような後悔はおやめになり‥と励ましていただきました。
その文章を読んだ時、心が軽くなりました。そして自分がいかに今を生きる力を減らすような事ばかりしていた事に気付きました。
大変大切な事を教えていただきました。誠にありがとうございます。感謝しています。

3人の僧侶の方々のアドバイスで私は苦しみから救われました。
改めて仏教の素晴らしさと僧侶の方々の智恵の深さを知りました。
今回いただいたアドバイスを励みに今現在を大切に頑張って生きていきます。
本当にありがとうございました。

丹下さん 追伸読みました。
お名前間違って書いてしまってたようで申し訳なかったです。
失礼しました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ