住職様にとって、お葬儀とは何ですか
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。
私は、長らくサービス業に従事しております。
ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。
宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。
そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。
まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。
何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。
『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。
お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。
無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。
よろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無心でお送りするという事です。
あなたのお考え通り故人を極楽浄土へとお送りする事、そしてご遺族の方が、大切な肉親の死を受け容れる行為と捉えております。
私は小学6年の時からお葬儀を勤めさせていただき、30年の間に1000以上の仏さまをお見送りいたしました。
その間、信心や立ち居振る舞い、葬儀における僧侶の意味など様々な葛藤がありました。
その中で最近思う事はMUST「~であらなければならない」ではなく自然体で仏さまと向き合う事が私の在り方なのかなということです。
その在り方が、心を空っぽにし、無心で読経し、作法を行えるのです。
そこには何の見栄も下心もなく、只今の念仏を称えている、一僧侶が存在するだけです。
あなたも葬儀会館へお勤めならば、ご存じでしょうが、僧侶は会館内に入れば、葬儀社の方やご遺族に深々と頭を下げられ、あたかも殿様のような扱いを受けます。
ここで「私は本職であり、素人のあんたがたとは違うんだよ」と慢心を起こしてしまえば、もうこれは僧侶として機能していないなと思うのです。
ご遺族、一般の参列者、葬儀社の方そして僧侶によって、葬儀は作り出される。
「~しなければならない」親の葬儀をしなければならない、会社の付き合いだから行かなければならない、と思うなら参列されなくてもよいのです。
ご遺族が泣く場
こんにちは。
私は曹洞宗ですが、曹洞宗の葬儀は、故人がお釈迦様のお弟子様になる内容となります。
式の中で、仏教徒として守るべき仏戒などもでてきますので、その戒法を葬儀時にプリントして配り、「今日は戒を故人に授けましたが、参列の方も仏教徒としてこの戒法を守りましょう」、とちゃっかり布教もしております。
ご質問中『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』とありますが、わたしにとっては半分正解半分外れですね。
私は『故人が無事に仏になると同時に、残された遺族が大切な人の死を受け入れ、それを乗り越え回復するための儀式』と捉えています。
ちなみに私は「泣くお葬式」を目指しています。お葬式が終わると、ご遺族もご友人も普段通りの生活をしなくてはなりません。お葬式の時に泣かないと、この現代社会では泣いているヒマがないんです。また泣くことで精神が回復すると考えております。
一方でお葬式でご遺族は気が張っているのと、亡くなった事に現実感がなく、泣けないご遺族が多くいらっしゃることに気がつきました。私も祖父母の葬儀で泣けませんでした。
ですから私はお通夜・火葬・葬儀を通し、泣かせるような話をして泣いてもらうようにしています。泣いてくれたらお葬式は成功です。
あれもこれもで広く浅い回答になりますが…
お葬式は死者のためか遺族のためか?
森羅万象、一切合切のためです。
「仏になる」ってそういう事です。
あらゆる事物には原因と結果があります。原因なしに存在している生物や、無生物、現象は無いはありません。この世界は原因と結果の網の目のような繋がりによって成り立っています。
すべての存在は繋がりの中で生きているのであり、単独で存在するものは無い…だから自分を大切にするためには、自分という結果につながる原因を近い所から順番に大切にするしかない。そういう生き方が真の賢さですよ。これがお釈迦さまの教えです。
ハイ、話を戻します。
Q,お葬式は故人のためですか?
A,当たり前です。
Q,お葬式は遺族のためですか?
A,当たり前です。でも遺族が俺のため俺のため、私のため私のためなんて言いながらやるお葬式はロクなもんじゃありません。この辺は臨機応変に言葉を選びましょう。
これが私のスタンスです。そして理想としては、国語辞典に載っているような成仏ではなく、本当の悟りの所に持っていきたい。自分個人の枠を取っ払って、繋がり全体としての自分に持っていきたい…そこに仏教が目指す救いがあるから。だからお葬式は森羅万象、一切合切のため。
意味が分からないと思いますが、本来は「お葬式とは何か」の前に「仏教とは何か」が来ないと分かるものも分かりません。それにお葬式のメインは読経ではありません。葬祭の世界に入ったからには追って学んで頂ければ幸いです。
それから仏教は西洋医学ではなく、東洋医学のようなものです。つまり腫瘍が出来ました、手術で取り除きましょう…ではありません。東洋医学は生活習慣や体質改善によって病気になりにくい身体を調えます。仏教も智慧と慈悲の実践によって苦を悪循環させにくい心を調えるものです。
だから私は「お葬式で救う!」ではなく、お葬式から続く一連の送りや年中行事等を通して心の方向性を調えられるような送り出しを目指しています。
あと、多くの現代人にとって死を実感する場は葬儀しかありません。生命のことはテレビや映画、本では本当に学ぶことは出来ません。人が死んだら悲しいんだ…それを本能の次元で学ぶには、お葬式で死を共有する他に方法が無いのです。それは自死を減らしたり、犯罪を抑制するにも大切な事だと思っています。
最後に、お坊さんも色々ですからスルーすべきはスルーしましょう
あなたの言われる通り両方の意味があるのです。
私は浄土宗ですから、ご遺族や参列の方々に、阿弥陀仏や極楽浄土の話をして、亡くなられた方が極楽浄土に往くこと、極楽浄土で仏に成る為の修行をすることを伝えます。
また極楽浄土では先に往かれているたくさんのご先祖様達と会えること、そして、いつかは皆さんとも再び会えることを伝えます。
そして、極楽浄土に往く為には南無阿弥陀仏と念仏を唱えることが大切だと伝え、ご遺族や参列の方々と共に、亡くなられた方の為に念仏を唱えるのです。
ところで、何かお坊さんに要望などありましたら遠慮なく教えてくださいね。私達にとっては日常茶飯事ですが、亡くなられた方にとっては一生に一度の法要ですから、出来るだけいい法要にしたいものですね。
南無阿弥陀仏
確かなるご仏縁、ご法縁を結んで頂けるための大切な儀軌
やっつ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
葬儀とは、故人様はもとより、ご遺族の皆さまとも、確かなるご仏縁、ご法縁を(更に強固に)結ぶ、あるいは、結ぶための機縁として頂くことで、悪趣輪廻・六道輪廻に陥らずに、解脱、悟りへの道を明らかに照らし示すためとして行われるものであると僭越ながらにも存じております。
インド中後期密教経典に、一切悪趣清浄タントラというものがございますが、このお経が説かれた由来の教説の中で、帝釈天が、天界で共にあった天子無垢宝光という者が死んだ後のことを、世尊(ヴィルシャナ)に尋ねられます。その際、天子無垢宝光は、地獄に落ちており、その後も六道輪廻を苦しみ彷徨い続けるとおっしゃられて、帝釈天たちは恐れおののき、天子無垢宝光、また、帝釈天たちはもとより、輪廻に落ちている者たちが、輪廻から解脱して、悟りへ至るための方法をお示し下さいと懇願され、世尊は、その方法を説示されることになります。
その説示されました方法の一つを帝釈天たちは、天子無垢宝光のために実践することにより、天子無垢宝光は、何とか悪趣輪廻から離れることができるようになるのですが、天子無垢宝光が帝釈天たちによって、そのように供養を行ってもらえたのは、天子無垢宝光にはその過去世において、仏縁があったことによっての功徳を積んでいたがゆえであると説明されます。
ここで拙生が想起致しましたのは、いわゆる「縁なき衆生は度し難し」ということでございました。
葬儀は、生前に仏縁、法縁がある者はもちろん、やむなく今世では無かった者であっても、今世最期に仏縁、法縁を結んで頂ける機会であり、是非、何としても結んで頂くことによって、悟りへの流れにしっかりと乗って頂きたいものであると考えております。
また、葬儀を執行して頂けるということは、その故人様自身の過去世・現世における仏縁、法縁(あるいは、ご遺族様の仏縁、法縁)の功徳によっての有り難く尊いことでもあるとして、しかるべくに仏様のお加持のお力(仏様による救いのお力/例えば、上述の一切悪趣清浄タントラの場合であれば、一切の悪趣を清浄にする世尊の三摩地のお力)を賜ることによって、悟りへの流れに向かえますようにと、浅学菲才の未熟者ではございますが、真摯に全力で調えさせて頂いて参りたいものであると存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなり大変申し訳ございません。
ご質問させていただいてから約1ヶ月。さらにたくさんの経験を積ませていただき、さらに多くの知識を得ました。
ここ最近で一番心に残った教えは、「曹洞宗では、導師が戒名を与え引導を渡すことにより、故人を彼岸へ迷わずに導く」といったものです。ただ、これは宗派によって異なるようですのが(浄土真宗は故人を即身仏と考えるため、”冥福を祈る”や”安らかに眠る”などの考えがないことなど)、やはり住職様のおつとめは、故人の極楽浄土へのお導きに関係があるものだと知って安心いたしました。
また、皆様のありがたいお考えを聞くことができ、心より感謝申し上げます。
鳳林寺 光禪さまの「泣かせるお葬式を目指す」というお考え、とても共感いたします。お葬儀のお手伝いをさせていただくと、”やらなければいけないことの忙しさに追われ泣く暇もない・喧騒から逃れてふと我に返ったとき、急に悲しみが襲ってくる”ご遺族もいらっしゃるようです。
お葬儀は故人のためでもありますが、残された遺族の心の整理の場であることも間違いないかと思います。私も、ご遺族がしっかり悲しみにひたり、これからの人生を前向きに進んでいくためのきっかけになるようなお葬儀を手伝わせていただきたいと、改めて強く思いました。
ご住職の皆様、大変貴重なご意見をお聞かせいただき、ありがとうございました。