動物について
殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。
罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか?
とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それでも、それはアナタではない。
道徳、倫理上、そして動物愛護の精神からすれば、動物とて私たちと同じ命です。
その生命を軽んずるようなことは無いに越したことはありません。殺処分を食い止める活動をなされている方の活動に加わるという方法もありましょう。
ですが、その以前にこれは我々人間の心の働きの一つとしてお考えいただきたいのでありますが、
「過干渉をしない」という事、これに尽きます。
感情移入、相手の気持ちになる、投影する、同情する、思い入れを深める、というと良いことのように感じられますが、それによって自分の心が情報に、染まる、毒されている面にもお気づきください。
人間は、情報から影響を受けてしまうことで心が痛むのです。
仏教でいう所の涅槃、悟り、遠離とは、それらに処してもそれらに心が毒されない心のありかたを見出しなさい、というものです。すこし冷静になれるよう、あえて距離を置かれる視線も大切に。
今日もどこかでどなたかが亡くなり、沢山の命が殺処分されてしまっている現状は確かです。
ですが、それらすべてを自分一人で背負いこみ、それらの負のエネルギーに影響を受け、心が毒されますと精神衛生上もよろしくありません。人が一人でできることには限りがあるのです。
そのものから受ける負のイメージを打ち捨てて、そのものを、そのまま受け取るあり方。情報に毒されない心。
具体的に動物たちの命を救わんとする行動や解決策は、それができてからであると思います。
報謝の気持ちを忘れずいること。
そうですね〜 どんなものにも、命があり 尊い。
命を尊ぶ一方で、私たちは、 他の命を 犠牲にして、我が命を保っています。
そうして、私たちは 生かされている。なんとも、罪深い私たちなのです。
心を痛め 悲しむことが出来る あなたは、とても素敵な方だと思います。
報謝の気持ちを忘れずいることが、今 出来ることでは ないでしょうか。
私は、せめて、傷つきたい
makiさん
動物実験の残酷さについて、私も思い悩み、調べたことがあります。
日本の法律では、新成分配合の薬品・化粧品等を販売する際、厚生省に動物実験のデータを提出しなければならず、そのため毎年30万頭(匹)以上の動物が、極度の苦痛を味わいながら「殺されて」います。
欧米各国では動物愛護の観点から動物実験を禁止している国も増え、代替として培養細胞を用いた方法も開発されています。日本でも資生堂が動物実験廃止を廃止すると発表した事はニュースとして報じられました。
科学の進歩と共に、動物実験を伴わずに人間への安全性を保証する方法が確立されつつあるのだと思います。ぜひ多くの企業に、多少コストがかかったとしても動物実験を減らし、あるいは廃止する方向に進んで頂くことを念じています。
厳しい言い方をしますが、makiさんの仰る「どうすれば傷つかずに考えることが出来ますか?」という問いは、「どうすれば現実から目を背けることができますか?」「どうすれば罪悪感を感じないで済みますか?」という問いとして、私は受けとめました。
私はそうではなく、今までの現実を受け入れ、今日まで人類の安全に寄与してくれた命に対し、深く哀悼の意を表するしか道はないと思います。
そして今後、苦しみのうちに最期を迎える命が少しでも減ることを念じ行動すること。
ひとりひとりが生き方の選択をすることによって、それは実現に近づいていくのではないでしょうか。
〜追伸〜
makiさん
「お礼」拝読。そこまでの苦悩とは読み切れなかった事をご容赦下さい。
それほどまでに深くお考えであれば、食事をすることも、薬を使うことも、何もかも辛く感じるのではないかと心配になってしまいます。
本文の繰り返しになりますが、深く哀悼の意を表し、生物たちの苦が減ることを念じ行動する。全てを救うことが出来ない以上、出来ることはそれしか無いのでは、と考えています。
私は昔、昆虫が大好きでした。
私は子供のころ昆虫が大好きでした。しかし、いつの日にか昆虫が急に触れなくなり、カブトムシやクワガタなど珍しい昆虫以外は触れなくなり、害虫と呼ばれるものは殺生しています。
そんな私ですが生き物に関しては、早川いくを先生著『変な生き物』を読み、『飛び出せ!科学君』が放映されるようになり、人知れず生き物に関して興味が湧き起こりました。
私は特に絶滅危惧種、絶滅した動物についてmaki様と同じような感情が湧きます。
最近、日本カワウソが絶滅しましたが、この事実、皆さんはどう受け止めてらっしゃるのでしょう。「日本カワウソいなくなって、私たちの生活にどう影響するの?何にも変わんないじゃん。」と思っている人が多いと思います。「地球温暖化防止のため、木を植えて緑を増やそう。でも、木を食べるカミキリムシの幼虫は退治しよう。」私には意味が解りません。「養殖のフナや鯉などが大量に食われるから、タガメを退治していたら、今や絶滅危惧種。今度はビオトープなどを作り、保護しよう。・・・。」挙げればキリがありません。まさしく、エゴの塊ですわ。
こんな時は傷ついてばかりいないで、験を担ごう。「朝の蜘蛛は縁起がいい。」「蛇の脱皮の皮はお金が溜まる。」「百足は軍神。勝利を導く。」「鰯の大群を見たら、大物がかかる予感(笑)」などなど。挙げればキリがありません。生き物を粗末に扱うと験を担ぐことすら出来なくなります。
地球上にいる人間たちよ。いつか「窮鼠猫を噛む。」されますよ。
多くの命に支えられて
意味の無い生命は無いと思います。
全ての生命にその生存する意味があると思います。
しかしその生命を元に今我々が快適な生活を送ることが出来る。
そう思って亡くなった生き物の生命に感謝をして
今自分を今以上に良く生きていこうという様に
考えていけば良いのではないでしょうか?
全ての生命に感謝をして今を生きていく。
自然界のものたちへの感謝と報恩
maki様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
この自然界においては、大いなる縁起としての営みがある中で、当然に動物たちが存在しなければ、もちろん人間も存在し得ないことは自明の理でございます。私たち人間においては、助け合い、支え合い、分かち合いの心を持って、自然界のものたちへの感謝と報恩が求められるものであるのではないかと存じております。
人間の傲慢さ、強欲さなどの煩悩によって引き起こされている悪い行為は、もちろん必ず悪い結果を招くこととなります。足るべきを知らずに必要以上までの自然界のものたちへの「傷つけ」もできるだけ避けれるようにしなければならないことであるかと存じております。
また、過去問におきましては、殺処分されてしまう動物のことに関して拙生も回答をさせて頂いております。皆様のご回答も少しくでも参考となるのではないかと存じます。
問い「私が殺したのでしょうか」
http://hasunoha.jp/questions/128
『・・皆、それぞれ、この縁起なる世界において精一杯に生きています。そのものたちにも少しばかりでも思いを寄せて、大事に大切に思い、頂いた「いのち」にも感謝して報恩を持って応えていくこと、例えば、少しでも自然環境のことを考えて、保護やエコを心掛けたり、ふと水におぼれて困っている生き物たちがいれば、そっと助けてあげたり、あるいは地面を気にして歩いて、生き物たちを踏み殺さないようにしたりと、ほんの少しでも気遣いができていけるようになれば、優しい、思いやりの心も育めていけるのではないだろうかと存じております。・・』
「罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか?」・・この問いにつきましては、畜生として生まれてくることについての「縁」に依るところ、また輪廻のありようを深く考える必要もございますので、少しここでは詳しくは述べれませんが、自然界の助け合い、支え合い、分かち合いにおいての営みにおける役割は、各々にあると言えるのは確かでございます。私たちにおいては、動物たちへもできうる限りに無為なる「傷つけ」はこれからも避けて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
maki様へ。
貴女様には、動物(一括りにしてご免なさい)に対し色々と思いめぐらす事も大事では有りますが、先ずは現実を受け入れ、
全ての生命の安全に寄与してくれた尊い命に対して、
深く感謝の意を持ち続ける事が其れらの命の供養と成るのでは有りますまいか。
私はそう思います。
質問者からのお礼
浦上様、ご回答ありがとうございます。「どうすれば現実から目を背けることができますか?」「どうすれば罪悪感を感じないで済みますか?」そんな風には思ってないですよ。充分病気になるほど苦しみましたし、それでも想像の世界でしかなく私には彼らに代われる勇気もない、ガス室に入ることも麻酔も使われずに実験をされることも生きたまま皮を剥がれることも殺される恐怖を逃れられないことも自分には絶対無理なことが絶望的で、何の衣も纏わず痛々しい身体と、素直で疑うことすら知らない純粋無垢な心で引き受けている。想像するだけでも恐ろしい現実にへし折れますし、自分も動物を飼っていて心癒されて、そういった話から一時は、こんな柔らかい身体がと思うと触れるのすら躊躇したり、一緒に眠れなくなったこともあります。ただ動物の立場からして、彼らに取ったら理不尽な苦しみや痛みに納得のいく答えや理由を少しでもここで見出したかったのです。真に純粋な者は報われると教わりましたが、でも実際は弱く一番もの言えない逆らえない立場で、命の権利や生存やの自由がないかの様に扱われ、彼らに取って一体何の為の意味のある酷い経験なのかと疑問に思ったのです。
中田様、ご回答ありがとうございます。 報恩の気持ち大切にして、人として逆に動物たちに出来ることをしていければ良いですね!
沙門様、ご回答ありがとうございます。少しでも供養になるように毎日祈りを捧げたいです。
水上様、ご回答ありがとうございます。頑張ります。
川口様、ご回答ありがとうございます。「私が殺したのでしょうか」も、読ませて頂きました。本当に命にまつわることはとても深く、難しいテーマですね。生き物についての心がけ、大事にして生きて行きたく思います。『畜生として生まれてくることについての「縁」に依るところ、また輪廻のありようを深く考える必要』に、ヒントがある様な気がしました。
大鐵様、ご回答ありがとうございました。少し明るい気持ちになれました!カミキリ虫は、子供の頃お庭の木にいてとても大人しいのでよく腕に乗せて遊んでいたのがある日いなくて探すと地面で死んでいて、子供心に悲しくて大事に埋めたことがあります。キンチョールの影響も考えられます。人には人権があり、生き物にはないというのが腑に落ちないし、地球を一番痛めつけているのは人ではないかと思います。「窮鼠猫を噛む。」の日が訪れるかも知れませんね。全てを操れる人間だからこそ心してそうしないという生き方、命を大切に想う生き方を一人一人が意識していければ本当に変わりますね☆
浦上様、ありがとうございます。心配おかけしてしまい、申し訳ありませんでした。それまで言い切れなかったこと、自分の中で伝えたかった想いを聴いて頂けたこと、意見をして頂けたこと、ここで大分整理がついて来て心の落ち着きが少しづつ取り戻せて来ました。そうゆう明るい明日が来ることを、祈って生きますね。。
丹下様、ご回答ありがとうございます。何かそう仰って頂けたことで、心の錘が取れ少し軽くなりました。自分自身どうして良いか解らなかったので、自分の今の心の状態、それが今どうゆう状態であるのか、これからどうしていけば良いのか、気づかせて頂けました。そんな現実があるのに、自分は楽しく生きてはいけないとか、幸せになることは許されないと、どこかでいつも重い暗雲がかかっていたように思います。あまり感情移入し過ぎた日には、寝てるときに犬や猫が何匹か(多分その日殺された)部屋を横切ったりはしゃぎまわっていたこともあり、死んで苦しみから今は少しは解放されてるのだなとは感じたけど実態がないので悲しかったり、辛いことでも考えなくてはいけないと束縛をずっとしていた様に思います。色んな方に打ち明けても、私自身に対して元気出してとか言われるけどそれでは動物は浮かばれないと思って、今回追い詰められた末こちらに導かれたことがきっと今後の転機になると思えましたし、本当にここへ来て良かったと思います。