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失敗

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有り難し有り難し 40

いつもお世話になっております。
今日仕事でミスをしてしまいました。
個人的には大きな失敗だと思います。
折角評価をされて仕事も少しは覚えて来た所に・・・
ショックで立ち直れず逃げたしたい気持ちです。
でも逃げれば気持ちは楽になれるかも知れませんが・・・
自分自身が許せなくて許せなくて・・・
どんなに人生経験を積んでも失敗はするんでしょうか?
その失敗した時にどうやって心の傷を癒してますか?
スミマセン教えて下さい。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

猿も木から落ちる
弘法にも筆の誤り
河童の川流れ
お坊さんのお経忘れ

どんな達人でもプロでもミスはしますよ。
ミスの頻度が少ないということはありますが、ゼロではありません。ですから、あなたがミスすることも当然のことです。

ミスしたら謝る相手がいるなら謝って、反省して、原因を見つけて、対策を立てましょう。あとは、その対策を実行するだけです。

これを繰り返していけば、だんだんとミスの頻度が減っていきます。

心の傷を癒すのでは無く、原因を見つけて対策を立て実行すること、そのことに意識を集中しましょうね。
頑張ってくださいね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

失敗は失敗のままにさせるからいけない

引用問答にて
Qいつもお世話に~個人的には大きな失敗だと思います。
Aその失敗したという出来事を10分割してください。
そして、それを次の面を探してマイナスイメージ、ネガティブな気持ちをはがすのです。
この出来事は、失敗という面だけではなくて、
1学びであり
2反省材料であり、
3自分を向上させるきっかけであり、
4より良い方法を見つける機縁であり、
5それによって出逢いがあり、
6軌道修正・心機一転・再出発であり、
7自分の思い上がりを凹ませられたきっかけであり、
8hasunohaの坊さんとの出会いであり、
9心がタフになれるきっかけであり、
総じて、獲得でしかない。
10え?失敗?確かに、ミスはミスでした。
ですが、これは、この出来事を乗り越えて、消化した時に私が最終的なジャッジを下します。
ですから、まだ失敗ではありません。
Q折角評価~逃げたしたい気持ちです。
A逃げるのではなく、受け止め方の角度を変えるのです。
Qでも逃げれば気持ち~自分自身が許せなくて許せなくて・・・
Aその結果、自分を苦しめているのは誰でしょうか。
Qどんなに人生経験を積んでも失敗は~どうやって心の傷を癒してますか?
A心の柔軟性、タフさ、染まらない、とどまらないことを仏教で学べばよいのです。
その為にこそお寺は開かれています。私どもは死んだ人を相手になんかしちゃいません。
生きている人が、困った時にどう生きたらいいかをお伝えするためにこそお寺の門が開かれています。ぜひ、お寺にお越しください。お名前に恥じない様に「絶対幸せに」なってください。その答えは、ここにあります。はい、埼玉県のど田舎、サヤマ村に。
失敗が、あなたの中で失敗ではなく、ただの出来事となる「気づき」だけ提供させていただきました。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のお返事有り難うございました。
同じ失敗を繰り返さない様に原因を追求して此からも頑張ります。

丹下覚元様
お返事有り難うございます。
事細かく説明して頂き誠に有り難うございました。
この失敗を糧に更なる向上して行きます。

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