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ホワイトデーのお返し

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今更なのですが、こないだの出来事です
朝から怒鳴られるという災難。
女性職員にホワイトデーのお返しをしたものの「なんなのあのお返しは❗」と怒鳴られる😣
その女性職員は……今までも自分に対してお土産買ってきたから「10倍返しでお願いね。」と言われる……。自分は「期待しないでください」といっていたのに……。怒鳴られるってもう嫌だ~😵
仕事でもそれからは無視されます😖
もう疲れた😣💦⤵
最後の最後にとどめの一言で「ちょっと仕事出来るからって調子乗んなよ」と言われまして……。
今後どうやって接して行けばいいでしょうか?アドバイスお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

困った女性職員さんですね・・・

本当にとんだ災難でしたね。

ホワイトデーのお返しは等価が基本、せめて倍返しでしょうが、それを「10倍返しでお願いね。」なんて理不尽極まりないです。「期待しないでください」と言っておいたのを、逆のフリだと勘違いしていたりして……。「ちょっと仕事出来るからって調子乗んなよ」と言うことは、嫉妬も加わっているように思います。

このままでは仕事に支障が出るようならば、ほとぼりが冷めた頃に食事会にでも誘って(数人で)、ゴマをすっておきましょう。そのような人にはこちらが真剣に考えない方が良いと思います。

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

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あれやこれやと物事にいちいち意味をつけなければ良いでしょう。
今をきちんと生きていない気がします。
どこを見て生きてるんだろう、オレ、と思ってみることです。
👉おそらく頭の中でしょう。
どうして考えごとばっかして苦しんでいるんだろう、オレ、と思ってみることです。
👉考えごとを楽しみとして生きていると知ることです。
毎回毎回すぐ問題が生じるのは何故なのだろうと、思ってみることです。
👉問題を問題視する、問題化させるのは、あなただ。
一つ問題が生じたら、すぐに問題視する、問題化する。
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この無限ループ、くりかえしは道を求める上で根本から間違っていると思ってみることです。
解決すべき所が外ばかり見ている。
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そろそろ、そういう生き方を本当に根っこから変えよう!変えなきゃ!他人ばかり、外のことばかり変えようとしていたオレ!このままじゃダメだ!真剣に仏道を求めよう、と思わんことには、表面的なものにチョイチョイ対処しているだけに過ぎないという事を知るべきでしょう。
評論者で評論に溺れる人は実際の事実ではなく自分の評論の方を真実だと思い、実際の事実をみようとしなくなる。
政治や何かにコメンテーターがアレコレ危惧することを口にしても実際にそうなっていなかったらそれはただの本人の妄想にすぎないのです。
あなたはアタマで扱っている自分の思いの方が真実だと思って真実をみていないだけではないでしょうか。厳しいようですが、グサッと指摘されて、今問題を起こしている「その心」をこそ問題視しなければ、私は仏教や仏道修行は何も始まりませんでしたが。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございますm(__)m
来年からは、受け取らない様にします。
なんか痛い目をみました。

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