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ヒトリにナリタイ

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有り難し有り難し 31

たびたびご相談させていただいております。
いつも有難うございます。

なんとなく気分が鬱ぎ、疲れて毎日まいにち食事の献立に悩み 反抗的な娘にイライラし、目の前でだらしなく太った旦那にウンザリしながら
「どいつもこいつも居なくなればいいのに 何もかも捨ててヒトリになりたい 」

と思ってしまいます。
自分の気持ちがひどくささくれだっているという自覚があり、これではいけない とも思うのですが やっぱり行きつく考えが

誰の世話もしたくない ヒトリになりたい
…何とかならないものでしょうか?

今ははっきり言って家族が煩わしい

酷い母親です。最悪な妻です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教はヒトリになってサトリを生きることです。

人間もともと一人です。
誰といても独りです。
天地自然、宇宙にたった一人の存在でヒトリです。
完全なる一人を生きることです。
本当に誰と一緒にいても一人なのです。
だから人生は素晴らしいのです。
天上天下唯我独尊。
あなたは最初から一人です。
それを忘れているだけだと思います。
本当に一人の呼吸を実感してください。
誰かと一緒に呼吸を合わせたりなんてしていません。
結婚式などでは二人三脚とか言われましょうが、本質は今、自身の命は自身の命を一人生きているのです。もちろん関係性もある中での完全なる一人です。
怖れずに自分の呼吸が一人この自身の命の為だけに働いて下さっている事を実感してみてください。
ああ、最初から最期まで、この身は独りを全うしているのだという事を自覚されることでしょう。
そしてその独り・1人ということがとても快適でかつ他の存在とすべてと関わっていて、孤独ではない1人であるという事を実感できる事でしょう。
人を意識したり、誰かに迎合すれば自分が自分でありながら、自分を本来の自分のままで居させない様にしてしまいます。
何か自分を考えの上で脚色して別物にしてしまうのです。
人間は、その考えからも自由で、考えからも独り独立しているのです。
そういう何ものにも属さない自分を発見するのがあなたの仏教の始まりです。
悟りは遠くにあるのではありません。
自分が自分を思考で脚色する前の自分を感じてください。
一秒ごと、一秒ごと、いつでも真新しい自分です。
一切前のことをすっかり手離れて心身ともに細胞レベルで全自動浄化されていっています。
お皿は洗わなければきれいになりません。
洗濯物も洗わなければキレイになりません。
ところが、人間だけは、何もせずとも人間の本体がいつでもこの身心を浄化させているのです。
一秒ごと、一秒ごと、時間も忘れながらに。
常に素晴らしく独りでありながら、悟りを得ていようが得てなかろうが悟りの内容をじかに生きています。
それをそうさせなくさせる、曇らせるのは自己の想念なのです。
だから人間は自分の想念から距離を置く必要がある。
それが坐禅です。
坐禅、念仏、仏道、禅は想念を離れて事実をじかに生きる道です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

本当に一人になったらたいへんだと思います

 家族がいることが負担に感じる。確かにそういう場合も多々あると思います。毎日の食事の準備も、手慣れたこととは言え、負担に感じることもあるでしょう。確かに疲れることもあるでしょう。時には、休息は必要ですよ。旅行や音楽などで、リフレッシュする機会を持たれたら如何でしょうか?

 普段居ること自体が負担に感じる家族でも、例えば風邪をひいた時、病気になった時、家族が全くいない場合といる場合では大違いです。必ずしも楽しい会話が弾むとは限られていなくても、言葉を掛けられる相手が居るということは幸せなことだと思います。これからの人生を生きていくためにも、無視し合う家族よりも支え合う家族に、悪態をつきあう家族よりもコミュニケーションが取れる家族になれるように努めましょう。
 但し、質問文を読む限りでは家族間のコミュニケーションはあまりとれていないようですね。それは、娘さんだけが悪いとか、旦那さんだけが悪いとかという問題では無いと思います。家族全員に責任に有るのだと思います。

 月並みな提案ですが、最初は面倒に感じるかもしれませんが、あなたから家族の皆さんに明るい声で話しかけていくことだと思います。暗い表情、暗い声で旦那や娘に「おはよう」「いってらっしゃい。」と言っても、帰ってくる返事は暗いでしょう。返事が有ればまだ良い方でしょう。下手すれば、返事をする気が無くなりかねません。或る程度、まままさんの明るい声掛けが定着した段階で、家族で話し合いの場を持ちましょう。

 「我々家族が明るい会話が出来、助け合い支え合いが出来る家族となるためには、皆の協力が必要です。ここ数週間、明るい挨拶だけは心がけてきました。でも、私だけでは駄目です。家族みんなが協力し合っていかなければ。」と話し合いましょう。

 まずはリフレッシュの機会を作り、心も体も健康な状態にしましょう。

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

質問者からのお礼

深夜にもかかわらず大変心のこもったご回答ありがとうございました。

鬱々と沈んでしまう心や理由の解らない怒りをもてあまし、愚痴を聞いて欲しくて質問させていただきました。
私が家族を疎ましく思うように 彼らもまた、私に対して我慢をしてくれている部分があるのだろうとも思います。

家庭の外の事にも関わる機会がこれから増えます。
元々仕事が大好きだった私が専業主婦をしていたのも良くなかったのかも知れません。

取り敢えず 生活を変えてみます。
有難う御座いました。

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