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修行するには!?

回答数回答 3
有り難し有り難し 37

中学生なのですがお寺に修行しようと思います。
できれば将来そのような仕事ができたらと思っています。
中学校は休学しようと思います。
お寺で中学生だけいって修行することはかのうですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

なぜ今でなければならないのでしょうか

仏道を歩みたいというお気持ちとても素晴らしいことであると思います。ただ、なぜその道に進みたいと思ったのでしょうか。
ただのあこがれのようなものであったら、今すぐでなくてもいいのかと思います。
中学校、高校ぐらいまではせめて通いながら、仏教の勉強をしてもいいのかもしれません。
長期の休みを使って、修行体験などに参加されてもいいのかもしれませんし、仏教系の高校、大学もありますのでそうした道もあります。
中学校は義務教育なので、卒業しなくてはいけませんし、数年お寺に入って修行する覚悟がおありかどうか、ということも言えます。

また、在家の方であればお師匠さんを見つけ弟子にしてもらうところから始めなければなりません。学校を休んで、数週間で資格を取るといった感覚で僧侶を目指そうというお気持ちであれば、もうしばらく学業に専念しつつ、仏教を学ぶ道をお勧めいたします。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

残念ながら不可能です

日本には75000のお寺がありますが、残念ながら、中学生の子が休学して仏道修行できるお寺は無いです。しかし、中学生の子が住み込みできるお寺はいくつもあります。お寺で暮らしながら、大人になることを目指すのです。

ただし、それにはおうちの方の許可が必要です。それは大丈夫ですか?もし、おうちの人とうまくいっていないのであれば静岡県の地元の相談窓口に電話してみてください。まずはそこからです。

実穂さんはお坊さんになりたいのですね。私もお寺の生れでは無く僧侶の道を選んだものですので、そういう子は大歓迎です。大人になったら必ず仏門に入れます。焦らないでね。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

お寺でなくてもできます。

禅の修行をしてみてください。
ちょっとしたアタマの切り替えを会得するだけでいいです。
それはどのような切り替えかと言いますと「考え事を介入させないものの見方」を会得することです。
携帯でいうとマナーモードのようなものです。
ちょっとやってみましょう。
1分~5分間静かにしていてください。
思いを黙らせてください。
・・・・・・・・
出来ましたか?
ずっと思いは出てくるでしょう。
では、今度はその思いは自然に出てくるものだから消しようがないと思って、しばらく思いの発生と生滅のなりゆきを見届けてください。
いつの間に現われ、いつの間に消えているのか。
さっきの思いはもうありません。
今の思いは相手にしてはいけません。
これから出てくる思いは、まだ出てきていないので取り扱う必要がありません。
では、思いがなくなると人間、何をするようになるのか。
だた、見えているだけ。
ただ、聞こえているだけ。
思いは出てきてもいいのですが、いつもあなたはそれを取り扱って、スマホのアイコンをクリックするように展開させてしまっているでしょう。
それを絶対にしないで過ごしてください。
それが、禅の修行のキホンです。
たとえですが普段1分間におよそ10回くらいの思いが出ているとして、それが、思いを相手にしないで過ごして(坐禅)いると0から2回くらいになり、思いが全自動で出ているのも良く分かるようになります。
思いは公なものですから、悪いものではないのです。
出てくる思いに反発、反応しなければ、無害になるのです。
静岡でしたら浜松の龍泉寺、掛川の少林寺に私よりももっとすごい和尚さんがおられますから坐禅会に参加して禅の修行の仕方を直接教わると良いでしょう。
自分が自分の中で出てくる思いにいつも振り回されていたでしょう。
その自分の思いからちょっと遠い所にいられるような感覚になったらあなたの修行の始まりです。
喩えですが、臭いものを嗅げば臭いです。距離ができればニオイは感じないでしょう。
そういう風に、自分の思いに対して、ちょっと距離を置くように過ごしてみてください。
どんな事が思えても、その思いに影響を受けることが無ければ、人生はとても安楽です。
(^<^)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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