自死者は、本当に成仏するのか?
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。
しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが
私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。
要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。
キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。
こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか?
本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。
イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・
言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか?
慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
涅槃寂滅
奥様のご命終に謹んで哀悼の誠を捧げます。南無阿弥陀仏
さて、ご質問の件ですが、まずは
>「誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。」
この揺るぎ無い事実から歩みを始めましょう。
であるならば
「自死者は永遠に苦しむ」
「自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できる」
「永遠の地獄に行く」
「極楽浄土へ行く」
これらは一体だれが見て来たのでしょうか。もうお分かりでしょう。全部人間の頭の中で考えたことでしょう。
では僧侶が言う
「自死者も必ず成仏する」
とは何か?ここからが今生きている我々が問う歩みです。すなわち
「仏ってなあに?」「成仏するってどういうこと?」
という問いです。
「成仏」が死後生として、私の魂が超絶確変によりピカーンと仏様にでも変わるというならばその理解は上記のそれらと変わらないものでしょう。
ではどこから考えるか。まずは自分がどこから来たかを考えてみましょう。今自分が生きているとはどういうことか考えてみましょう。下記も参考にしてください。
https://hasunoha.jp/questions/18061
テツ様がテツ様のいのちの事実に目覚めた時、奥様のいのちの事実にも目覚め、奥様の死後に何も期待することも何も恐れることもないという真理に出遇った時、ご自身をその真理に目覚めさせた奥様の仏としてのはたらきに
「ああ妻は間違いなく成仏したのだ、私に真理を教えてくれたのだ」
と手が合わさるのではないでしょうか。
テツ様が生きているこの今において仏様としての奥様に出遇えるのではないでしょうか。
仏教徒としての死は、もはや死後に何も期待することなく、何も恐れることのない、寂滅の境地だと私は思います。寂滅とは
生あるものが有で、死者が無なのではありません。生が楽で死が苦なのでもありません。
生も無、死もまた無。その無が虚無でなく、空(くう)であるがゆえに、この世の形ある生を終えてもなお、あらゆる形で人は出遇っていけるのです。
縁ある人の死は私にその真理を教えてくださる「仏のはたらき」です。
奥様は死後生で苦しんでいるのではありません。テツ様の頭の中で苦しんでいます。
テツ様も奥様も共に、仏法の真理に出遇っていきましょう。
よく、生きるための教え
南無阿弥陀。
こんばんは。私は結局、「生きよ、よく生きよ」という所に落ち着くのではないかと思います。聞いたことがあるかと思いますが、仏教は対機説法。本質的には一対一の教えなのだろうと思います。お釈迦様の話も、誰かの問いを受けての答えであることが多いでしょう?
「生きよ、よく生きよ」に繋がるためには、「自死を考えている人」には、「やめなさいよ、生きなさいよ」というために「死んでも輪廻を漂います。また苦しみますから、今の生をよく生きましょう」と説くでしょう。
一方周りの人には「自死であっても仏様は救ってくださいます」と説くでしょう。それによってある意味決着をつけ、自身がが如何に生きるか、「如何によく生きるか」そちらに目を向けさせるためであろうと思います。
ご供養することを説くのも、「亡くなった方に対しての、するべきことをすべし。そして、生きている自らの生を見よ」という「生きよ、よく生きよ」に繋がっていると考えます。
あなたのすべきこと、まずはご自身の生を全うする=仏教を学び実践する、事であろうと思います。
身を誠実に、言葉を誠実に、意識を誠実に
これを本気で語り出すと莫大な量の背景知識が必要になります。
まず密教は仏教の中でもダントツで裾野が広い分野です。それこそオウム真理教もチベット密教を独学でやって魔境に墜ちた類です。ご質問の件も1人のお坊さんがこう言ったからといって、それが真言宗の宗旨と思うべきではない事例の最たるものでしょう。
色々な宗派に触れて見聞を広めるのは良いことですが、自分と合わないと感じたら合わないなりに距離を置くのも大切です。背景知識なしに整合性を取ろうとすると泥沼化します。
さて、自死者は本当に成仏するのか?
私は禅宗の者ですが、禅宗の死生観はこうです。
https://hasunoha.jp/questions/14941
諸法実相と言いまして、密教の大日如来・浄土門の阿弥陀如来を、禅宗では山川のような自然の中に見ます。水墨画はもともと禅宗のお坊さんが写仏の修行として描いていたものです。密教の曼荼羅・浄土門の極楽浄土を、禅宗では山川草木に見ているとも言えます。
そうした時に、私なりに死者の成仏を説いたものがこちらです。
https://hasunoha.jp/questions/3758
ここで「見る自分」(六根)は仏である自然に還るわけですから成仏していると言えます。ただしここで言う仏とは悟った人ではなく、過去・現在・未来の世界中のご縁そのものを指します。一言に仏と言ってもニュアンスが色々なので難しいのですよね…
ここで、禅宗では地獄をこのように捉えます。
https://hasunoha.jp/questions/12983
つまり奥様の「見られる自分」(六境)は後悔のテツさまの中にいらっしゃいます。ゆえに今後の後悔のテツ様の生き方や心のあり方が奥様の成仏を左右します。自死をして奥様を救いに行くというのは有り得ません。今現在の生き方が聖戦であり修行です。
この場合の成仏は悟りに近いニュアンスになります。前者の仏を法身仏、後者の仏を色身仏と言います。
お釈迦さまの教えから離れず解釈すると、必然的にこうなると私は考えております。現実的でしょう?地縛霊なぞ大学でも修行道場でも師匠の口からも一度も耳にしておりません。
さぁ、解釈で心を和ませるのではなく、善男子たらんと行動し、奥様を、あなた自身を救いましょう。
かなりの長文になり申し訳ありません。
一切衆生の済度へと向けて
自死につきましては、確かにナーバス、慎重な議論とならざるを得ないところがございます。
また、自死そのものが、どのような業となって、輪廻に影響を与えるのかどうかは、やはりケース・バイ・ケースと言わざるを得ないところもございます。
ただ、言えるのは、僧侶の多くが、自死された方への供養をされているということは言えるでしょう。
その供養は、自死なされた方々の成仏のための因縁(原因と条件)となりうるということであります。
のみならず、一切衆生が救われるための悟りへと向けた修行、功徳、供養に励む者たちがいる限りは、輪廻にある者、皆が、成仏のための因縁に与れることになりうるはずであるかとも存じます。
如来様方も、修行に励んでいる縁ある衆生が存在している限りは、決してお見捨てになられないことでしょう。
一切衆生の済度へと向けて、とにかくできるだけ仏法修習に努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様ご回答有難うございます。大変失礼な文面になってしまったこと誠に申し訳ありませんでした。1000字内に収めるためどうしても謙虚さのある文面にならず本当を申し訳ありません。
私は、小さい頃から神様を信じそして地獄もあると信じて来ました。母の自死、妻も自死。この歳になって来世が真実で、現世が修行の場。心の持ちようで地獄にもなる。私の現状が生き地獄ではないかと思われて仕方ありません。神様も悪戯が酷すぎると本気で思ったりします。また、私が前世で本当に酷い事を行って今、試練を与えられているのかとも思ったりします。
ハスノハの僧侶の皆様は、本当に私達自死遺族に心温まるお言葉をいつも頂戴し本当に感謝しております。これからも自死遺族の会や集いに参加させて頂きます。私には、このハスノハと自死遺族の会の皆様以外今の辛さを話すことができる方がおりません。どうぞこれからも宜しくお願い致します。字数の制約上大変失礼な文面になってしまい本当に申し訳ありませんでした。