仏教の修行法を教えてください。
はじめまして。
近頃仏教に興味が湧いてきました。そこで悟りを開くために自分も何か修行しようと思い、どのように修行をすればいいのかを知りたくなりました。
今はまだ出家する気はないので、出家せずにする修行法を教えてください。
スポーツも年々新しい効率的なトレーニング法が考案されますが、仏教にも最新式の修行法などがもしあれば教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それがただそれ かくのごとし
本来成仏。
この心身に余分な働きを加えなければ本当に成仏。
で、今「オラは悟っていない」とみるのは、考えをおこして眺めているからです。
犯人はそやつ。
考え、思い、思考のマインドでものを眺めるように分析的にみているから悟り状態を否定したり、その考えによって影響され、悟りではない、とラベルを貼る。
力を抜いて、そこにそのまま❝居て❞みてください。
居る ということは、それ以外に何もしないことです。
私は今電車、西武線に揺られていますが、手を休めれば、目はただ物ばかりが映る。
留めようと思っても新しい景色に代わっています。
その通りに今です。
悟りという事も迷いという分断、区分けもなく、そのとおりに、見えて、聞こえています。
これは、万人の真実の姿です。
そこにそれがあれば、それが只そうある。
残り物なく、とどまりもなく、何の坐禅やら仏行やら修行臭いことも持ち込んでいない。
それが無為です。
無為なんて言葉すらいらない。
その通りにただ、そうあるだけ。
ところが多くの人は、考えの上で修行らしいことをやろうとします。
真の剣士は竹刀や刀なしに相手を倒せます。
「私はまだまだそんな境涯ではない」とか思うでしょう。
それもはからい。考え事。理。
本当に、それの通りに過ごしてみてください。
空手にして本源に還る。
持ち物なしに、自分が自分ともしらずに、そこに居る。
居るなんて認識すらない。
悟った老師はよくこう言っておられました。
「本当になンもせんで居られるようになりなさい」
良寛も似たような言葉を残しています。
「観音さまに五眼あるとな?真・清浄・広大智慧・慈・悲の観。まったくツマランものじゃ。無観こそ最も好観だのに。」
世間では、そういうかまえ事や、それらしい修行法をありがたがるものですが、わたしゃ電車に揺られながら、そうしていながら最高じゃ、ということです。
ガタンゴトン。
それがただそれ。そこで完結です。
事があれば、ただそのことあるのみ。
思いが出たらただ出たというだけ。
そこにワタクシする思いが無くんば、ただそれがただそれ。
坐禅というオスワリのをするのではない。
こころが外の事にも内なる思いにも、向かって、ただ、そうあるだけになって「ただ居られる」ことこそ活きた悟りなのです。
他に何かをすればいいということではない
釈迦さまもそうであったように、自分のほかに何かを求め、「これをすれば悟りが開ける」といったことはありません。
すでに、ご自分のありようは、悟りの世界です。ご自分を研究追求していくことが、悟りの道です。考え方の世界でもありません。
私は禅宗の僧侶ですので、坐禅をお勧めします。禅とは何かを学ぶことがいいと思います。禅に関する本はたくさん出ています。片っ端から読むのもいいです。とにかくどんなものが禅なのか学んでください。
「音楽念仏三昧の修行効果って?」世界最新かどうかはわかりませんが、"こんなのもありますよ"、というご参考までに。(ちなみに参加者は、ほとんどが一般の方です) http://taosangha.com/what-a-experience/nenbutuhi/
戒・定・慧の三学
戒(五戒)を守り、
定(禅定、精神集中の修行)、
慧(智慧、観察、ありのままに観る修行)
を行うのが、仏教の基本です。
慧(観察)については、例えば、
日本テーラワーダ仏教協会のホームページにヴィパッサナー瞑想というのが載っています。
http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html
同ホームページに出ている慈悲の瞑想は、
定(禅定)の修行に該当するようです。
質問者からのお礼
胡座をかいて、目を閉じて、一分間なにも考えないというのをやってみました。坐禅の仕方はこれであってますか?これを毎日やればいいのでしょうか?
丹下覚元和尚。
回答を何度も読んでみました。
ようするにすでに私は悟ってるから、そのことに気づいて、アクセク座禅したり修行したりする必要はない。という理解でいいですか?
丹下覚元和尚。
回答を何度も読んでみました。
ようするにすでに私は悟ってるから、そのことに気づいて、アクセク座禅したり修行したりする必要はない。という理解でいいですか?