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念仏をしても極楽浄土の存在を感じる手応えを得られません。

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 現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。

 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。

 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。
 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。
 
善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。

 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

報土因果顕誓願

極楽浄土に行ったこともない、それどころか本当の極楽浄土を知りすらしない私があらかじめイメージした「極楽浄土っぽいもの」を「極楽浄土」として設定しているとしたら、いつまで念仏していてもから念仏に終わってしまうのではないでしょうか。
(もちろん「から念仏」であっても推奨されるところではありますが)

念仏とは仏を念ずることです。阿弥陀仏に南無(帰依)することです。

「こうすれば浄土にいけるはず!」「浄土とはこういうものだ!」

というのは仏を念じているのではなく、私を念じているのではないでしょうか。

さて、「極楽浄土は絵空事のフィクョン」であったとしても、あるいは「釈尊直説」ではなかったとしても浄土は偽物ではないでしょう。

それは「アンパ〇マンは本当にいるのか?」と問うているようなものではないでしょうか。アンパ〇マンが実在しなくとも私たちは「愛と勇気が大切」や「弱いものいじめをしない」など、アンパ〇マンの物語から現実に「はたらき」を受けることができます。

つまり、浄土が実在しなくとも浄土の物語からはたらきを受けることはできるのです。その時物語は真実となります。

私は浄土宗ではなく浄土真宗ですが、親鸞聖人は「正信偈」に

「報土因果顕誓願」~「報土(浄土)の因果、誓願に顕す」

とうたっておられます。「浄土ができる原因も誓願(本願)だし、結果としてできた浄土も誓願にあらわれている」ということではないでしょうか。

浄土実在の有無が問題ではなく、本願に照らされる場が浄土のはたらきを受けるのです。死後ではなく「今」本願に照らされてまいりましょう。

その点からいえば、私は「手応え」も「明るく有意義な暮らし」も手に入るものではなく、そいうものを求めて迷いを深めている姿があきらかになるところに浄土のはたらきがあるのではないかと思います。

私もまだまだ勉強不足です。お互いにこれからも精進しましょう。(勉強が救いの条件ではありませんが)

南無阿弥陀仏

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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フィクションかもしれませんね

私達は煩悩まみれの凡夫であり、仏の教えを疑ってしまうのもまた煩悩のせいですから、仕方ないのです。
そのような煩悩まみれの私達でも極楽浄土に迎えて下さるのが阿弥陀仏なのです。
徳本上人というお坊さんは、
口先で 南無阿弥陀仏といえばよい 心なくして 申せるものか
と言われたそうです。
一般的には、深く信じて念仏をとなえるべきだと言われていますが、私達にはなかなか難しい。
だからとりあえず、信心なんてなくても、口先だけでも南無阿弥陀仏と言えばよい。
しかし、本当に信心が無いなら口先だけの念仏もできないのではないか、口先だけでも念仏できる人には信心があるのではないか、
という意味ではないでしょうか。

私は、実感なんてなくっても、本当に阿弥陀仏がいらっしゃる場合は念仏していれば救っていただけるのだから、口先でも一応でも、とりあえず念仏をしておいて損はないと思います。

仏教学的には、極楽浄土の教えが説かれている経典は、お釈迦様が亡くなった後になって付け加えられた後付けの経典ではないかという説があります。
もしかしたらそうかもしれません。
しかし、南無阿弥陀仏と念仏をとなえて、経典に出てくる阿弥陀仏の平等の慈悲に共感することだけでも、素晴らしいと思います。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、念仏すれば救われる。
「みんな漏れなく救われたらいいのになぁ」という平等の慈悲が、浄土宗の精神なのです。
仮に極楽浄土がフィクションでも、日本全国、さらには世界中に現に存在するお坊さんや念仏者達は、
「みんな漏れなく救われたらいいのになぁ」
の価値観を共有する仲間です。
口先でも念仏をとなえているとき、あなたもその仲間です。
まずはこの世で、平等慈悲の世界に生きましょう。

なお、往生を願って念仏をとなえるという修行は、戒定慧の三学でいう「定」、つまりサマタ(しゃまた)瞑想に通じる修行です。
ですから、聖道門の観点からも、全く的はずれな修行ではないでしょう。
もちろん、精神集中(定)ができなくても阿弥陀仏は救ってくださいます。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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極楽浄土と阿弥陀如来様

お礼を拝見し・・灌頂を受けて密教の本尊瑜伽、つまり、生起次第だけならば、結局のところ信解作意までとなるため、いずれにしても究竟次第も修することが必要になります。但し、二次第は、他力本願ではなくて、自力によるところが大となります。参考まで。

・・

顕教においては、悟りを開いて如来・仏陀となるためには、必ず、仏と会い見(まみ)えること(見仏)と、灌頂を受けて、悟りを開く時期や如来となった際の名前等を教えて頂く「授記」が必要であるとされています。

基本的には、最後有の菩薩がいよいよ悟りを開く際には、色究竟天(密教での密厳浄土とされているところ)に赴いて、となりますが、浄土教の場合では、最後有の菩薩でなくて、凡夫であっても、極楽浄土へと往生することにて、阿弥陀如来様の下で悟りを目指すということになると言えるのではないだろうかと存じます。

なぜ、極楽浄土への往生を目指すのかと申しますと、確か、人間と同じく、仏道修行に適した有暇具足を得られて、直接に阿弥陀如来様から教化を頂けることができることで、見仏と授記も頂けるからであるからではないかと存じております。

浄土三部経は、釈尊がお説きになられておられますが、どうして、釈尊が極楽浄土や阿弥陀如来様のことを述べられておられるのかと申しますと、お互いに一切知者(全てを知る者)であるため、互いのことを自分のことのように把捉できるからであります。

現在、この世界は、如来・仏陀は不在となってしまっています。如来・仏陀が不在であれば、見仏も授記も受けられず、誰も成仏できないことになります。そのため、釈尊が、如来・仏陀が不在となられることを前提として、自分の代わりに、見仏・授記をしてもらえるところの一つとして、極楽浄土・阿弥陀如来様のところへの往生を説き示されたのではないだろうかと存じます。もちろん、他の浄土での見仏・授記できるところも含めてでございます。

拙生は、まだまだ愚鈍未熟なる凡夫ではございますが、拙くにも信解作意していくことにより、少しずつではございますが、仏典の内容に確信を得つつでございます。

極楽浄土と阿弥陀如来様の存在についてもでございます。

もし宜しければ「全訳 極楽誓願註」(起心書房)の読解もお勧め致します。最後の中沢先生による論考も何か参考となるものがあるのではないだろうかと存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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字数制限があるので少しだけ

仏教の経典は幅広く奥深く、更にそれらについてもいろいろな解釈がありますし、未だ明らかになっていない歴史的事実などもありますから、あなたが迷うのも当然だと思います。
その迷いを直接先生や師僧に問い、教えてもらえたら良いのですが、もしかしたらそれができない環境もあるのかもしれませんね。
それに、先生や師僧によっても答えが変わるでしょうし。
お釈迦様は弟子への遺言として、自灯明、法灯明、と言われましたよね。自分の考えを拠り所としなさい。お釈迦様の教えた法を拠り所としなさい。という事ですよね。
つまりは、あなた自身が法に基づいてあなたなりの答えを見つけ、それを拠り所として生きることが大切なのだと思います。

さて、念仏しても極楽浄土の確信が得られないとのことですが、人によって確信を得たという人もいますが、確信が必ずしも必要なのではありません。
私たちのようなこの世で生きている間に悟りに至ることができない、煩悩を捨て切れない愚かな凡夫には、極楽浄土に行く他に悟りに至る道が無い、という消去法的な結論なのです。
私達に残された最後の手段なのです。
ですから私としては、先ずあなたには、あなた自身が悟りに至るように努力してみて欲しいと思います。努力の内容は阿含経典に書いています。読んでください。坐禅するなら禅宗のお寺に行って教えてもらうのがいいでしょう。
その結果悟りに至ることができれば、それに越したことはありません。極楽浄土を目指す必要は無いのです。
しかし、自分に限界を感じた時、悟りに至ることができないと感じた時、その時に初めて自分には極楽浄土に行く他に道が無い、という結論に至るのです。
その時に心から念仏を唱えることができるのです。
阿弥陀仏は自らの名を呼ぶ者を救うと誓われました。ですから、あなたに三心が無くても、ただ声に出して南無阿弥陀と一言でも唱えたことがあるなら、命が尽きた時に迎えに来るのです。
また、一言でも唱えたなら阿弥陀仏は聞き入れてくれるのに、なぜ何度も唱えるのか。それは、名を呼ぶという事には様々な思いが込められているからです。極楽浄土に連れて行ってくださいという願い。極楽浄土に連れて行ってくれる事への感謝。子供が母親を呼ぶような親しみ。名を呼べば目には見えずとも目の前に現に居てくださるという感覚。などなど。
お互い経典の勉強と仏道の実践を精進しましょう。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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いつの日にか信じられます

拝読させて頂きました。あなたのおっしゃることわかります。

私の経験から申し上げさせて頂きます。私が講義を受けて単位を取って本山にて加行を受けて五重相伝を受けて成満しました。

その時は全く極楽も阿弥陀様もわかりませんでした。その前に信じることが出来ませんでした。

修行がとにかく早く終わることや辛いことから逃げ出したいとしか思いませんでした。

つまり目の前の仏様のお姿も読んでいるお経も見ているふり読んでいるふりだけでしたからそもそも芯から頭の中に入ってきませんでした。

阿弥陀仏様やお経を受け入れて信じる心がなければ頭に入ってくるわけはありません。信じることができない絵空事でしかないですからね。

私も最近です。信じて南無阿弥陀仏おとなえさせて頂くようになりましたのは。

人には何かそう思うきっかけや出来事が必要かと思います。

あなたにもおそらくそのようなきっかけや出来事が訪れるときが必ず参ります。

今信じられない、思い描けないとしても悲観したりあせる必要はありません。

どうか今は先ずは勉強してください、そして沢山の先生から教えを受けてくださいね!

今でしかできないことをしっかりなさってくださいね。

卒業すると勉強したくてもなかなか出来ないものです。

しっかりと仏教や浄土学を大学で学んでくださいね。

必ず将来あなたの信仰の礎となることでしょうからね。

あなたがいつの日にか信仰が芽生えてお念仏の充実した毎日を送って頂きますように心よりお祈り申し上げます。

南無阿弥陀仏

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

『選択集』の中の留教で、有暇具足が得られない末世の私たちのために、阿難に念仏を伝え残すようにと説かれていますので、念仏往生論は仏の教えで間違いないと思います。しかし、私は浄土宗なので教え通りの称名念仏によって、三学どころか三信すら具足できなかったのが、不思議に思いました。法然上人の教えに何か問題があるのか、私に問題があるのか。残された道は本尊喩伽を成就する密教の実践ぐらいしかありませんが、絶望感が漂います。やはりもう少し仏典を学ばなければ、極楽浄土の存在の確信は得られないとは思いました。

みなさま、ご回答ありがとうございました。

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