無知について
仏教の教えの貪瞋癡の癡についておしえてください。
貪は欲で、瞋が怒り、欲と怒りは仏教を知らない人が聞いても意味がわかると思いますが、癡の無知がよくわかりません。仏教の無知とはどう言う意味ですか。
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回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無知とは、真実を真実のまま認めない心では
正確なことは分かりませんが、真実を認めず、自我によって見ている思いの世界を真として生活している、愚かな心ではないでしょうか。
普段、生活している中で良くあることは、Aさんが私に対して「〇〇してはだめですよ」と言ったのを取り上げ、
・私は、Aさんに怒られた。→きっとAさんは私のことが嫌いだ。→Aさんは私に対して恨みを持っているはずだ。
こうした思考を持つことは全て妄想であり、無知のあらわれではないでしょうか。
真実はAさんが「〇〇してはだめですよ」と言った。それだけが事実。そこに良い悪いも付け加えず、そのまんまを聞くことです。怒られたなんてこともありませんよね。音がそのまま耳に入ってきているだけ。それが事実です。
思いに騙されそれが真だと信じ、苦しむ姿は愚かで無知なのではないでしょうか。
迷いの根本です
欲望と憎悪は確かに分かりやすいです。いつもこれらに支配されていることが見えやすいからですね。おっしゃるとおりです。
これにつき、思い出すのが恩師の一人のたとえ話です。お子さんたちがまだお小さかった頃、山口の秋芳洞を訪ねた。つねに暗闇のなかにいる魚は目が退化し無くなってしまっていた。根本的な愚かさはいつも私たちを覆っているので、それを感受する力が私たちに乏しいのですね。
いくつか参考になりそうなものを挙げてみます。
1.スマナサーラ長老の無明に関するお話し。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon71.html
2.ウィキペディアの「無明」の項
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E
これは大乗(中観)では、空性を理解していないことということになりますう。
要は智慧の反対語ですから、智慧が成仏に至らせるのと逆に、輪廻の理由となる真理に対する根本的な無知ということではないですか。
苦悩の原因になる「愚かさ」全般
まず、仏教が、悩み苦しみを無くしたり制御したりするための教えだと理解してください。
そうすると、無知(愚かさ)というのが、
「悩み苦しみを無くしたり制御したりするのを邪魔する」愚かさ全般だと考えられます。
たとえば、怠けや不注意、うろたえ・混乱、プライド、
また、苦・無常・無我を理解せずに心身を実体的にとらえてしまうこと、
変化する物を変化していないと勘違いしてしまうこと、
何かの情報を最初から決めつけて疑ったり盲信したりすること、
無意味な迷信やしきたりに執着すること、
さらには、私が私として生きることへの執着、存在への執着まで。
自分で自分の悩み苦しみを増やすことになる考え方(愚かさ)全般が、痴なのです。
それは、生命が生まれながらに持っている「勘違い」です。
痴(無知)という勘違いは、障子に映る木の影を幽霊と勘違いしているようなもので、
悟って、「なんだ、木だったのか」と真理に気付いたら、
痴は消えて、二度と幽霊に見えなくなるのです。
勘違いの夢から目覚めたことを「悟った」と言います。
愚癡 ぐち
愚癡=無智=愚かさ です。
愚癡とは智慧がなく正しく判断できない様を言います。
『貪』と『瞋』を含む全ての煩悩の原因がこの『癡』だと言われます。
私たちには、知恵はありますが智慧がありません。
それこそが苦しみ悩む大きな原因なのです。
知恵=人間の知識や思考
智慧=仏様の知識や思考
を表します。
質問者からのお礼
ありがとうございました。勉強になります。