hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

未来に絶望しかありません

回答数回答 2
有り難し有り難し 31

プロフィールの方で書きましたが、今は無職になりました。

本当は、早く仕事したいのですが、選ぶ仕事を親に反対され諦めるという情けない男です。

もう30手前です。来週ですら、自分の未来が見通せません。ろくに寝れていません。

苦しくて悲しくて、どうなってるのかわかりません。

どうすればいいのでしょうか。脈絡がなくてすいません。自分がどうなるのかわからないのです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毎日が新しい人生のスタート

未来を見通す力は、人間には備わっていません。誰もが来週の自分なんて知りませんよ。
あなたが心配なのは、お仕事が決まってないからでしょうが、焦らなくてもいいと思います。今はしっかりと自分にあった仕事を見つけることです。やりがいのある、やりたいと思える仕事。

焦っても何にもなりません。ある程度いつまでには決めよう、とか計画を立ててみたらどうでしょう。周りと比較したり無駄に未来を想像してみたり、じぶんを追い詰めることはやめて、今やるべきことを淡々とこなすのです。焦りは無駄な時間です。🍵

人生の中のしばしの休憩だと思い、じっくり足元を固めていきましょう。
月曜日です。どうにかなる、ぐらいの気持ちで新しい人生のスタートです。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

反対や圧力で終わらせず、その先のページまで進んでみる。

あなたが終わりだと思っているところは通過点でしかありません。
あなたがそこを終わりの場として設定しているだけです。
無職というゴール。
無職というスタート。
無職という通過点。
あなたが今の状態を思考でくくっているだけなのです。
門は入り口にも出口にも通過点にもなる。
あなたが拘泥している理由は何か。
親に反発できないだけのこと。
それはあなたが親のせいにして自分がその親の意見を採用しているだけのことです。
結局採用しているのがあなたなのです。
自分がたくさんある選択肢の中から何を今日、選択するのか。
何もしないを選択している自分にたった今!ここで!気づいて即座に行動しなさい!(強めに言っておきます)
このまま、グダグダ人生で親の言いなりになって、それを理由にグダグダになるなら、あなたもそこまでの人間です。
親との癒着が断ち切れないなら親も一緒にハローワークに連れて行って、親の納得する職業を選んでもらえばいい。どっちもしないまま、そこに停滞しているのが一番よくありません。
「絶望」はその時、絶望であっても、今日のたった今、下すべきファイナル評価でも、永遠の評価や烙印ではありません。評価はその時下した評価にあなたが握って騙されるから前に進まないのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼のコメントが遅くなってしまって申し訳ありません。
まだまだ悩みが深いのですが、無事就職はしております。
ご回答してくださった方には厚くお礼を申し上げます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ