お盆とはなんですか?
こんばんは。
いつもありがとうございます。
今日はひとつ質問をさせてください。
49日の法要で、新しい位牌に主人の魂をいれていただいたと聞き、
今もこうして、同じ家に一緒にいるのだと考えていました。
昨日、提灯を出しお盆の準備をしながら、ふと思ったのですが、
なぜお盆になるとお墓に主人を迎えにいくのでしょうか。位牌にいるものだと思っていたので、なんだか不思議です。
ちなみに、昨年の新盆は、初めてのお盆は家に帰れない??とかで、お迎えに行きませんでした。
これまたよく考えると不思議です。
位牌やお盆、お墓、遺骨とは、どのような意味合いなのでしょうか。
初歩的な質問で、申し訳ありません。
何となく、気になりだしてしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お墓から始まる世界平和
最近、歴史の教科書がドンドン変わっています。実は仏教学も変わっています。盂蘭盆(ウラボン)の言葉の由来も変わりました。儒教由来の行事で、やってるのは中国と日本くらいだというのも嘘でした。仏教学以前の伝統の方が正しかったのです。20世紀のお盆の常識は一度、全て点検されねばならないでしょう。
さて、お盆のお寺の大法要で供養されているお位牌は、餓鬼ではなく三界万霊です。三界万霊とはあらゆる世界の全精霊のことです。精霊(しょうれい)と言っても幽霊ではありませんので『世界そのもの』と言っても良いでしょう。私たちのご先祖さまは土に還り、あるいは火葬で天に昇り、世界そのものに帰ります。
そうした時に実は本来、お墓参りはご先祖さまに帰省してもらうのではなく、お墓を掃除したり供物をして『お世話をする』のが本義です。詳しくは下のリンクへ。位牌とは?お墓とは?にも回答しています。
https://hasunoha.jp/questions/16820
8月盆の時期は雨が少なくダムの無い時代は稲作に怖い時期だったでしょう。また、お寺のお盆の法要で小さな旗が配られ、田んぼや畑に立てておくと虫除けのお守りになるという風習が昔はありました。そう考えると上のリンクの内容はお盆にマッチしていると思えます。
また、春彼岸、お盆、秋彼岸、年末年始の年4回のサイクルの中で、お盆はもっとも草が伸びやすく、しかし暑くてしんどい時期です。古来、日本では田植えなどの重労働はお祭り化し、皆で楽しみながら乗り切ろう!という伝統があります。お盆のお墓参りもその一環でしょう。
ご先祖さまに帰省してもらうということは霊的に帰ってもらうことではありません。私達が故人の人生や言葉に想いを回らし、お寺で法話を聴き、改めて自分の生き方を考える機縁にしましょうということです。
参考: https://hasunoha.jp/questions/3758
さて、儒教では三魂七魄と言い、魂は三つ、魄(骨)七部位あると考えました。魂は1つって誰が決めたのでしょうか?実際、ウチの宗派のお檀家さんのアンケート調査では、ご先祖さまがお墓にいると考える人が4割、お位牌にいると考える人が4割、残りがお寺や浄土にいると考える人とその他だったように記憶します。ひょっとしたら本当にお墓とお位牌とお寺合わせて3つの魂があるのかもしれませんね
家族と一緒に過ごす時期
宗派や地域によっても色々ありますね。
浄土宗的には、亡くなられた方やご先祖様は普段は極楽浄土にいます。彼らは仏様になる修行をしているのです。そして、その修行により六神通という力を身に付けています。その力でどこにでも瞬時に飛んで行くことができるのです。
ですから、お位牌やお墓の前で手を合わせて念じたり話しかけたりすれば、いつでも瞬時にそのお位牌やお墓を拠り所として目の前に来てくださるのです。
また、お盆はとても歴史がある風習です。
一説には、今の日本のお盆は、インド、イラン、中国、日本の文化が合わさった形になっているようです。これは仏教が伝わる先々でその土地の風習の影響を受けてきたからでしょう。
インドでは餓鬼事経にあるような過去世の母への供養から始まり、イランではウラバンという先祖供養(先祖が家に帰って来て一緒に過ごすので食べ物を供える)の風習と合わさり、中国では盂蘭盆経に改めて纏められ、さらに日本では、古来の魂祭という山(亡くなられた方は山に帰ると思っていたのです)からお盆の時期にご先祖様が家に帰ってくるという風習と合わさり、結果的に今のような形になったといわれています。
迎え火や送り火は日本の古来の風習から来ています。その火を目印にご先祖様が山から帰ってくることに由来しています。提灯は迎え火や送り火の代わりです。
つまりお盆はあの世からご先祖様が家に帰ってきてしばらく家族と一緒の時間を過ごす、ということであります。
浄土宗的には、ご先祖様は極楽浄土から帰ってくるとされています。(前述したように、いつでも来れるのですけどね)
ちなみにお供え物にキュウリで作った馬を置いてご先祖様に馬に乗って早く帰って来てください、ナスで作った牛を置いて牛に乗ってゆっくり帰ってください、というのも日本の古来からの風習のようです。
位牌、お盆、お墓、遺骨、、、どこか一箇所に ずっといる、、、というより
いくつもの居場所を持っている。と、とらえたら いかがでしょう。
本宅に加えて、いくつも別荘を持ってて、そのときどきで、好きなところにいるんですよ。生きてる私達のように、どこでも動きまわれる。そう考えたら、それぞれは単なる家や、居場所にすぎないと、私は思ってます。
質問者からのお礼
大慈様。聖章様。
ご丁寧な回答ありがとうございました。
お墓参りから始まる世界平和なんて、ほのぼので素敵ですね。お墓に行く機会は、その家族によって確かに様々なのでしょうね。お墓を掃除したり、故人を思い出しながら話をする機会を作る意味もあったのですね。
私は主人は家にいてくれていると思うことから、なんとなくお墓に行くことが、意に沿わない気がしていましたが、遺骨を納めている場所であり、そこで念じることでも、主人と会えるということならば、たまにはお掃除をしたりして、丁寧に扱わなくてはならないのだなとわかりました。
お二人とも分かりやすくご回答いただき、ありがとうございました。
禅僧むらた様
わかりやすい回答ありがとうございました。
何ヵ所かある。そういうことなのですね。
送りお迎えとなると、どこかへ行ってしまうのがなんだか寂しくなりまして。
主人が早く亡くなったこともあり、主人の実家にご先祖様のお位牌、主人の位牌だけこちらにあります。お迎えに行って帰る方向をそれぞれ間違えたりしないだろうかなんて考えてしまいますが、現れてくれる場所が何ヵ所かあるとするなら、問題ないですね。
ありがとうございました。