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坐禅について

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坐禅をなさる宗派のお坊さんは1日にどの位、坐るのでしょうか?
また、接心の間は辛くはないでしょうか?
素朴な質問ですみません。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅は心のあり様のこと。 DOではなくBE。

私は足を組む坐禅はほとんどしていません。
今日も足を組む坐禅はしていませんでした。
ですが、今も坐禅をしています。
心が坐禅・禅定だからです。
心が坐禅。こころの坐禅。
今の様子が坐禅・瞑想状態。
それは「何をするにも心が何かをしない」ありようなのです。
何をするにも心が拾い上げや取り扱いを起こさずに、自分の本来の様子のままでいる。
ひげ親父さんも純粋な頃は心があれこれ騒いだり、問題になるような心が生じなかったはずです。
坐禅は、思考の歩みだしがZERO状態。
坐禅は、私的な取り扱い、塗りたくりがZERO状態です。
自分の見解、思いの雲があれこれ浮かんで、その出た雲の後の方に乗って旅立ったりしません。
ちまたの坐禅指導や坐禅を真に知らない人による坐禅指導は、足を組む坐禅にこだわります。仮に曹洞宗であっても沿いうところがあります。
それは一般の素人さんに向けられたものです。
真に坐禅がものになった人からすれば、座っていない時でも坐禅(状態)なのです。
どうせ坐禅をするなら究極を目指してください。
坐禅ということを座ることだとか、するDOの坐禅だというところを彷徨っているうちは、坐禅ということが明らかにならないでしょう。
座る坐禅に用が無くなるくらい坐って、座臥を離れた坐禅に目覚めることです。
心のあり様が座る坐禅を離れた後でも禅定・静慮なる様子でなければ、その時だけ「やる」坐禅になってしまい力になりません。
坐禅の究極は「今」どうかなのです。
これから坐禅道にいて坐禅を始めるぞ、という以前に今どうか。
もちろん坐禅道で座る坐禅をすることも最尊最上です。
ですが、坐禅を一日に何時かにゃったかとか、座る坐禅にこだわってしまうことは貯金坐禅のようなもので本当に坐禅が力にはなっていかないのです。
人間は元々が人間の本来性のままとしてあり続けています。
そこに思考という割り込みが今のありようを脳内で別物に脚色してしまうのです。
その結果、不足感やこれではいけないとか、何かをし続けるということが始まってしまうのです。
坐禅はどのくらい坐ればよいのであろうかということを考え始める前は、それはそれで全うされて完璧だったのです。
自分の脳が自分が思考していることに気づけば、それをやめて本来の本分に安住する。
裁く自分、評価する自分「わたくし」が静まっている時、どういう様子でしょうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

救いのある禅

坐禅は自分の様子を点検する上で大切なことです。しかし、坐っている間だけ救われても仕方がないのです。坐っていない間も、穏やかで救われてなかったら、本当の意味の安心に繋がりませんよね。
ですから坐禅はやったらやっただけ良いとは思いますが、時間とか回数が重要なのではなく、坐禅をしているときの自分のありようを知り、実践して24時間過ごすということです。
そのためにもかたちだけの坐禅でなく、心のありようも含め、自分とはなんなのか追及して行く必要があると思います。とことん自己を究明していただきたいです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

覚元さん 
この四年、毎朝早起きして40分坐ってきたのですが、いつもDoだった様な気がします。
言葉では而今という単語を知っていますが、実生活の上での禅の実践がともなっていなかった様です。有難いアドバイスを頂き感謝いたします。また近い内に、井上貫道老師の坐禅会に行かせてもらいたいです。

邦元さん
確かに坐禅の後は清々しいのですが、仕事に出ると煩悩が爆発してしまう事も多々あります。
結跏趺坐も楽に組めるようになり毎朝休まずに坐っているので、それで変な自信が付いて来た今日この頃だと思いました。
お二人の回答のお陰で、それが煩悩だと気付きました。
『坐禅をしているときの自分のありようを知り、実践して24時間過ごすということ』を心に置いて生きたいと思います。ありがとうございました。

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