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仏性が「宿る」ということはありません。
「土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)す」と言いまして、物も本来、仏です。
長い間手元に置いて仏になるのではなく、今、仏と仏として扱いましょう。
仏性とは
仏性というのは宿るようなものではありません。一部の本などでそう思わせるような表現をしているものもあります。仏性とは魂のようなものが宿るというのではなく、働きをいいます。
目を開けると無の前のものが見える、音があると聞こえる、匂いがあると香る。食べ物を口にすると味がする、ものに触れたら触れたようになる、そうした働きが人間の考えや思いとは違うところで、働いているその活動自体を仏性と言ったそうです。
生きるものに仏性あり
仏性とは仏になる種のようなものです。
言い換えるとしたら例えば良心とも言えるでしょう。
ですから物ではなく、生きとし生けるものが皆持っているのです。
そして仏性を持つものはいつかは仏になるのです。
仏性について
にゃんに様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「仏性」とは、成仏できる、悟る可能性のことを申しますが、その可能性は、「こころ」を有する有情のみにあり、単なるモノ・物質が、成仏できる、悟る可能性を有することはあり得ないものとなります。
もう少し述べますと、仏陀となりうるための原因を具備しているということになります。
仏陀のお身体は、大まかには、法身と色身があるため、そのお身体を得れるための原因となるものがなければならないものとなります。その二身を得れる可能性を有しているということであります。
もちろん、可能性としてであって、しっかりとそれを仏道にて育まないと、結果としての仏陀にはなれないものとなります。
もし、更に上記の仏教における「こころ」のありように関しての内容をお知りになられたいとなりましたら、知覚や認識のありよう、論証による証明など、仏教における認識論・論理学を詳しく学ぶことが必要となりますので、どこか意識して学びを進めて頂けましたらと存じます。
「山川草木悉皆成仏」・「山川草木悉有仏性」という表現に関しましては、モノ、物質を認識する(悟った側の)「こころ」に投影されたそれらが、悟りの様相を顕現しているように(現量で)知覚していることを表したものと言えるのではないだろうかと存じます。
もう少し詳しく申しますと、世界が全て「空」として顕現していると申しましょうか。そんな感じであると理解致しております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
なるほど。勉強になりました。ありがとうございます。