マインドフルネスとは?
マインドフルネスというものは存在するのでしょうか?または、なにかの比喩なのでしょうか?
見よう見真似で、数十分間呼吸に集中してみて、、、なにか落ち着いたような気にはなれるのですが、ゴールがどこなのかよくわからず。
一般人レベルでは、ちょっと落ち着いた気分になれればそれで良いのでしょうか?
きちんとやると、スピリチュアルな境地があるのでしょうか?
坐禅に取り組む際のヒントをいただければありがたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
マインドフルネスを日本語に訳すと「気付き」です。あるいは「知覚」の方がニュアンスが伝わりやすいでしょう。別段、変な境地ではありませんし、存在するも何も、誰もが赤ちゃんの時には当たり前にやっていたことです。
息をしているならその息を、腕を動かすなら筋肉や関節の動きを、鳥が「チチチッ」と鳴いたらその泣き声を、お茶を口に含んだらその味を知覚します。いわば今、目の前の当たり前の世界を当たり前に知覚します。そして知覚するだけ。追わない。頭に1が浮かんでも2や3に膨らませず、1のまま知覚します。逆に言えば坐ることだけがマインドフルネスというわけでもありません。
さて、知覚から離れてコーヒーを口にしながら「プロジェクトメンバーのアイツがあの時あんなこと言いやがったから…」と考えてしまうとイライラしてくる…コーヒーを飲みながらコーヒーを忘れ(←知覚の逆)、何も今思い出さなくてもいいようなことを意識してしまうと心が疲れてしまいます。そうではなく、自分の心をコーヒーにお任せしてしまうのです。
ですからゴールなんてありませんよ。それをやればやったなりの今があり、やらなければやらなかったなりの今があるだけです。
なお、スピリチュアルな境地は『野狐禅』(やこぜん)と呼ばれ、狐に化かされて道を間違えるような、誤った方向性とされます。あるいは「仏に遭っては仏を斬れ」という言葉も本来はスピリチュアルな境地はただの自己陶酔だぞと戒めた言葉です。
最後にマインドフルネスは一般名詞であり、仏教ではないものも含め、色んな方面から様々なマインドフルネスが提唱されていますので独学は禁物です。
マインドフルネスという名前ではベトナムの禅僧・ティク・ナットハン老師のそれが世界的に有名になっていますが、日本で直接習える機会は多くありません。
坐禅としても曹洞宗、臨済宗、黄檗宗でやり方が全く違いますし、密教の観法、上座部のヴィパッサナーやサマディーなども広義の坐禅です。どれも同じ山の頂上を目指す別々の登山道にすぎませんが、一度、気軽に参加できそうな坐禅会に参加なさり、筋の通った登山道を選び、自分に対する登山マナーを学ばれた方がよろしいかと存じます。
正師の元で学ぶ
人間、ある一定のことを10000人が同時にやったとすると、大体同じような心になるものです。ですが、坐禅もマインドフルネスも誰が指導するかによって、厳密にはありようが微妙に変わってきてしまいます。道元禅師も当時坐禅は、日本でも中国でもどこでもやっていたでしょうが、如浄という人に会うまでは納得したものは得られませんでした。
マインドフルネスもマインドフルネスという言葉があるだけで、本当に優れた禅僧が指導すればちゃんと本物の悟りに通ずる働きになるでしょう。(^<^)
ところが流行りものは、必ず虫食いがツキモノ。そしてフィルターやら漂白やらカスタマイズ
され別物になっていく。
おまけに、なんちゃら協会やら、利益にしようとする団体が、我先にと団体を結成する。
そうすると、❝誰かの説くマインドフルネス❞になってしまう。色がつくのですな。
そこの代表者が本当にマインドフルネスを極めた素晴らしい人格者であるか、そこを見極める必要があるでしょう。ティクナット・ハン自体は純粋にマンドフルネスを伝えているだけ。
そのフォロワー的なインストラクターや、協会の人たちは誰でもいつでもマインドフルネスか?と問うと「NO」であったりする。
反対に坐禅を私や私の師匠の説く坐禅が文字化されたとします。
5行くらいの文字にしたとします。
それでみんな同じようになるか、といえば出だしのスタート時点が同じでも行き着く方向がまるでバラバラになってしまう。
スキーやスノーボード、ギターですら、多種多様です。
表面に見えない心のありようはもっと複雑です。
だから、究めようとされるのであれば正師に師事しなければちゃんとしたものは得られません。
理想的なマインドフルネスとは、創始者ではない誰か❝人❞によって定義されたものであってはいけないとおもいます。ちゃんと悟っている人がそのありようを的確に表現したものでなければいけません。
道元禅師のいう処とリンクさせるならば「宝蔵おのずから開いて受用如意ならん」。
ですが、あまり深くなりすぎると、分からなくなるので、およそ考え事から離れて、苦しみが無くなれば効果があった、という処でおさまるものです。
自分が、そこそこ悩まなくなれば十分な効果があった、といえましょう。
マインドフルネス=禅ととらえるなら
何かを求めてやるものではないと思います。
以前私もマインドフルネスに触れたことがありますが、そこに参加している方々は、
〇〇が痛い。〇〇の調子が良くない。など、ご自分の体調を良くするために来ている方が多くいられました。そうしたことが良くなるということはないと思いますし、超能力的なものが身につくことはないでしょう。
禅として捉えるならやはり、さとりを一つの目標にするのは当然でしょう。しかし、それは超越した力ではなく、ご自分の今のありように気付くということです。当たり前のごくごくシンプルなことに気づくということです。
特別なもの不思議な力を求めてはいけないと思いますよ。ただ、心が落ち着く程度れあれば、呼吸を意識して静かに座るということで良いと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
さとり=自分のありように気づく
確かに、それで十分です。
どうも禅を道と捉えつつも、なにか神憑り的なものを一方では期待してしまうのは、欲目でしょうか、宗教に対する先入観でしょうか。精進します。
大慈住職もありがとうございました。
野狐禅!なるほど、おもしろいですね。
今、ワークショップのようなものから、お寺さんの坐禅会まで色々あり、私のような禅/瞑想難民も多いかもしれません。まずはお寺さんに行ってみようと思います。
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覚元住職
どうもありがとうございました。
病院選びにもリテラシーが必要な昨今。似たような話でしょうか。私なんぞは、禅宗の各々の違いもままなりませんので、なかなか難しいですね。
まずは、近くのお寺さんの坐禅会に参加してみたいと思います。