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動物の供養

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私の知り合いにたくさんヴェジタリアンがいますが、私は菜食とは言えない部類です。
インドをはじめ世界の菜食主義者は、もちろん宗教上の理由からくるひとがほとんどだと思いますし、まわりもそうなんですが、
菜食主義者の方に

“肉というのはやっぱり血なんだ、牛でも豚でも、屠殺場というのは、それはそれは悲壮な声が響き渡っていて、
殺されるときに生き物は、涙を流しながらものすごく負のエネルギーを発する。
そうした肉を体内に入れるということは、そうした負のエネルギーをも取り込むことになるのだ。それに加え現在の牛、豚、鶏の飼育状態というのはおぞましいものがあり、せまい家畜小屋に押し込まれて、ただ肉となるために生まれ、そして死んで(殺されて)いくのだ”

ということを聞いて以来、私の生活の糧になる為に殺されたんだと、なんとも言えない哀しい気分になってしまいます。

やはり、動物が殺されるときは、負のエネルギーを発し、食することでその負のエネルギーを取り込むということは本当にあるんでしょうか?

お坊さんの中には、四つ脚の動物は食さない方もたくさんいらっしゃると聞いた事があるんですが、お肉は食されますか?

また、人間の生活の糧になる為に殺されていく動物への感謝や供養の仕方はどうすればいいのでしょうか。

お忙しいと思いますがご回答いただければ幸いです。よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

肉も野菜も同等の命

野菜だけ食べて肉食するのは✖というのは、一種の差別心でしょう。
お勧めは「ある精肉店のはなし」という映画がそれを取り除いてくれると思いますが、人によっては残酷に思える映像もあるのでやっぱりお勧めしません。(どっちやねん)
命は平等です。
空に深い所を言えば「平等」という人間の価値観すらありません。
どんな命も天地にたった一つきりしかありません。
絶対的(対の無い、対を絶した、全宇宙にただ一つの)生命の真実のありようです。
動物だって、野菜、魚、虫、何でも差別なく食します。
昔だったら人間だって、動物に食されていました。
そこに悲痛な声があろうがなかろうが野菜の汁も、野菜の生き血ではありませんかな?
野菜や布だけ使っていればいいというのなら、僧侶は絹の袈裟や法衣を身に着けますが、沢山の虫を殺して得られた糸の衣です。
植物だから良い、動物だからダメ、という所を行ったり来たりしても問題は解決しません。
自分の血肉をみれば、あらゆる存在から恩恵を頂いて成り立っている存在であることがわかるでしょう。
負のエネルギーがあるのは、そこにそれを感じ取った本人の中にだけです。
電子レンジもIHも有害と言えば有害です。
それに危険性を感じた人の中で、心の中でだけ「負のエネルギー」となるのです。
しらぬが仏でマックやらロッテリア、お肉をハムハムしているときにそんな事考えなしに食べていたはずです。
そこに「殺す」という言葉を持ち込んで、殺すという言葉にネガティブイメージ、マイナスイメージを付加しているから、殺すという言葉に陥るのです。
試しに、今日1食抜いてみてください。
殺すのがイケないというのなら、自分の命も殺すことになります。
そういう粗末なものの見方、ものを損ねる見方、偏った見方こそ【殺生】というのです。
手を合わせて頂きますという事ばかりではなく、仏道を学んで、生命というものが人間の価値観を超越した真実のありように目覚めることが本当の供養になります。
クモは共食い、カマキリはメスがオスを食べる。
人間の価値観を超越した生命の真実をそのまま、人間的な価値観を添えずに眺めてみてください。おのずから手が合わさります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

動物に感謝していただきましょう。

kanacoさん、ご質問ありがとうございます。
肉食については、宗派の違いによっても扱いは違うところだと思います。
肉食を、ある程度認めている浄土真宗のものです。
浄土真宗として、私が理解しているところをお伝えしましょう。

肉食は基本的に殺生とつながっていますので、積極的に進められるものでは
ありません。
しかし、実際には肉を食べ、それにつながることを糧として生活している人も
おられるわけです。
そういう人たちは、きっと喜んで動物を殺し、肉食に供しているのではない
でしょう。
それを全部悪として排除できるでしょうか。

屠殺場に悲しみが満ちているのは、きっとそうであろうと思います。
しかし、牛であれ、豚であれ、苦しまないようにとの配慮が行き届いている
と聞きます。
そして牛や豚を殺す人も、痛みや悲しみを感じているのだそうです。

私たちがお肉を食べるとき、そういう悲しみや配慮を持つことは難しいでしょう。
食べ物としてしか、見えていない。
そういうところが問題なのではないでしょうか。

私たちは食べ物を食べないと生きていけません。
いのちを奪うという意味では、菜食であっても植物のいのちを奪っています。
他のいのちを奪わないと生きていけない私たちです。

屠殺場での悲しみや配慮は、動物のいのちが視野に入っているからでしょう。
私たちも食べ物を食べるとき、そのいのちを視野に入れていたいと思います。
そして、そういう視野に立つとき、
私のいのちを支えてくれている、いのちに感謝していけるのではないでしょ
うか。

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真宗山元派上西山正善寺住職

いただきます

kanakoさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺、観音寺 中村太釈です。

食用になった動物たちに対する供養の言葉は、「いただきます」です。命をいただくという意味です。

他の生き物の命をいただいて生きなければいけない、私たちの懺悔の言葉です。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

お忙しい中、ご回答して下さりありがとうございます。

そして今まで野菜に関しては、過剰な懺悔もなく、センチメンタルもなく、もちろん残酷さもなく、ただただ淡々と食べていました。

同じ命。皆様が仰る通りだと思います。

食べる、というのは胃袋にものを入れることではなく、
肉の量でも、カロリー値でも、もちろんタンパク質の量でもない。。
その生きていた命をまるごと頂くことなんですもんね。

いろいろと考えさせられ、勉強になりました。
ありがとうございました。

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