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守り本尊というのがよくわからないのですが?

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素朴な疑問をさせていただきます。
仏教では西の極楽浄土に阿弥陀如来、東の浄瑠璃世界に薬師如来が居ると言われていますよね。

しかし卯の方角を文殊菩薩、酉の方角を不動明王が守るというような教えもあるようで、調べてみました。
守り本尊というものが決められているそうで各方角ごとに守っている仏様がいるようです。誰がなんのために決めたのかわからないのですが、仏様を信仰するにはこんなことまで信じないといけませんか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本有の守り本尊の説明、方便。

あなたの中に、観音も阿弥陀も不動も普賢も文殊もみんな守り本尊として本当に備わっているのですよ。
みんな誰しもの人間という「蔵」の中に引き出しみたいにしまってある。
だから この無限の宝の在り処である、自己を無尽蔵 虚空蔵 正法眼蔵 という。
蔵にあるもんをちっとも引き出せずに、粗末にして「そんなもんも信じなきゃいかんのか」と、あらぬ方向を向いているのはどこのどなたさまじゃ?
その引き出しの在り処は、そっちではない。
私はドラゴンボールの最長老みたいなものです。あなたのインナー観音、地蔵、阿弥陀を引き出す者。そういう僧侶に出会わんと、だれもがみんな自分の頭ででっち上げた理想、空想、絵空事のカミサマ仏教になる。
それでは、あなたにとっての仏教が何も始まらない。
観音といっても、どこか外の観音ばっかり追っかけてもしょうがない。
あなたが、一日一行でも無我の行を修すれば、千日で千手観音。
内なる観自在菩薩、内なる観音力を得なければ、他人事。
どんな物事を観るにせよ、そこに私見や己見(自分中心なものの見方)を交えずに、そのものをズバリ見れば、❝観自在❞菩薩が現われる。
ゴミでも、ガラクタでも、眼の開いたものは活用次第で、人も救う事すらできる。
その力に気づいたものは、ゴミのタイヤでサンダルを作り、ペットボトルで服を作り、瓦礫で公園を作り、ネット上にこのような救いの道場も作る。
そして、こういう話を聞いては、自分に効かせ、自分の宝を引き出す力がある。
阿弥陀というても、遠くにあるのではない。
無量寿、無量光という永遠の昔から続く時の、最先端こそがたった今。
無限に広がる宇宙のど真ん中に存在する自分の命の@のありかが「ああ、おらじゃ、いまここ、この事だ」と悟れば、そこに阿弥陀様が共にある。
全てが一期一会で、来たるが如く去るが如くの如来如去である。
本当に、守り本尊に出会えるまで、自分を理解してみてください。
信とは、正しい理解の事。
木仏などを拝んで、義務的に信じなきゃいかんと言っているうちは正しい理解=❝信❞ではない。ああ、自分のことか、自分にそなわっている力を、象徴したものが仏さんだと分かれば、信ずるも何もいらない。本当に信(おまかせ)が生まれる。
全部自分の事だから。ちゃんと自分で分かる。
そっちに眼を向けることを開眼といい、本尊に出会うというのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

気にする必要はありません

私は浄土宗ですが、聞いた話では、真言宗では、自分に縁のある仏様を決めて信仰するらしいですね。
また、浄土宗で使う阿弥陀経という経典には、東南西北下上の6方それぞれにいらっしゃる仏様達のお名前もいくつか出てきます。
なお、阿弥陀経の場合は、阿弥陀仏について6方世界のあらゆる仏様が太鼓判をおして褒め称えている、という説明のために、6方向の世界にいる仏様達の名前が出されています。
残念ながら、私達の世界の仏様であるお釈迦様はすでに亡くなられていますので、ご存命の仏様を拝みたいなら、他の世界(他の宇宙)に向かって拝むことになりますね。
まぁ、あまり気にする必要はありません。
好きな仏様を拝めばよいのです。
仏様のキャラクターは、仏教の思想や精神の象徴だと考えてもいいでしょう。
例えば、どんな悪人も必ず救う阿弥陀仏は、仏教の慈悲の究極を表現しています。
しかし、そのような慈悲は、お釈迦様や、あらゆる仏様も説いているはずです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
仏様は自分自身の中に存在するというご回答がありがたく思います。

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