反省は実行してこそ本当の反省ですか?
具体的な内容はここには書けずに申し訳ございません。
今は毎日猛省し、今後もう二度としない、それに尽きるのですが、
してしまった事の愚かさに後悔しない日は無いです。
なぜしてしまったのか原因を考える余裕もないです。
こんな愚かな私を両親、ご先祖様は情けなく思っているだろうと思うと、心が痛むばかりです。
してしまった事は許されないとは思っています。
ですが、
謝りに行く勇気がない私はダメでしょうか?
口だけで反省してると言って、行動しないと本当に反省が足りないと思うのでしょうか?
罪を償っていないと思いますか?
どうか教えて下さい。
助けて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分をあきらかにする
過去の相談もあわせて拝読しました。苦しい思いが切に伝わってきます。
しかし拝読していて感じますことを失礼ながら申し上げさせていただきますと…
本当に反省したいのでしょうか。罪を償いたいのでしょうか。ただゆるされたい、楽になりたいということはないでしょうか。
両親・先祖があなたを情けなく思うかどうかは両親・先祖が決める事です。今は「両親・先祖があなたを情けなく思っていると"あなたが”思っている」のでしょう。
行動は実践です。実践とは具体的に謝るという行為もそうでしょうが、「ウダウダ自分の思いに停滞していないで日々の生活を誠実に」というのも実践です。
なにがあったのか、してしまったのかはわかりませんし、書きたくないなら書く必要もありません。
しかし相手がいることで、実際に謝ることができるならやはり謝罪するのも一つの区切りです。それは自分が許してもらい楽になるために謝罪するのではありません。許すかどうかは相手が決める事です。たとえ許されなくとも精一杯の反省を見せ、申し訳ないという思いを伝えるのが謝罪でしょう。
その上で、自分をゆるせるのは自分しかいません。そしてその自分をゆるすはたらきを促してくれるのが仏様です。
仏様はあなたを絶対的に許します。それは悪い事をしてもいいというのではありません。たとえ悪い事をしようともそれを障りとせず必ずあなたを救うというのが仏様です。
だからこそ、その仏様のお慈悲に人は頭が下がり、自らの身の事実を恥じ、懺悔し、せめて仏の願いにかなうような生活をおくりたいと自らの在り方を問いながら実践するのでしょう。
それは自分が自分の思い通りに楽になる道ではなく、たとえ苦しくともその苦しみを自らの事として引き受けて苦しみきっていける道です。
ここで私たちがいくら「あなたは反省しています。もう充分ですよ」と言葉をかけたところで、実際に自分で自分をゆるせていなければ救われません。
どうぞ自分の姿をあきらかにすべく、今一度客観的な目で自らの姿を見てください。その目は私の目でなく仏の眼です。
目をとじ、手を合わせ、「私は私の都合の良いように考えていないだろうか」と問うてみましょう。
仏様はあなたをゆるします。あとはあなたがそのゆるしにあずかり、自らの在り方を問うていくのみです。
業(カルマ)の問題も考える
ティポ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
これまでのご質問も拝見させて頂きました。
反省、懺悔、慚愧、謝罪、贖罪・・世間的な場合と、仏教的な場合では意味合いが異なることもありますが、いずれにせよ、基本的には、悪い行いを慎んで、善い行いに励み努めることが大切なことにはなります。
懺悔は、悪い行いへの自覚的要素が強く、慚愧は、自覚的要素とともに、告白的な要素も伴うものとなります。
謝罪は、告白的に罪を詫びること、贖罪は、罪を何らかの対価を以って償うということになるかと存じます。
恐らく、悩んでおられるのは、その人への直接の謝罪と贖罪、あるいはその人への損害があるのであれば、その賠償についてのことであるのではないかと存じます。
もちろん、その人がいらっしゃるのであれば、できれば、直接にするべきではあります。
でも、どうしてもできないということもあるでしょう。相手方の事情もあって、できない場合もあり得ますし。
それならば、やはり、これ以上の罪はつくらないように気を付けると共に、できる限りに悪い行いを慎んで、善い行い(それも、できれば仏教的な善い行い)に励み努めることが必要となるでしょう。
仏教では、いずれにせよ、自分の行いが、自分のこれからに大きな影響を与えることになって参ります。業(カルマ)の問題であります。過去の自分の行いの業を含めて、その全般的な流れをより善いものに調えていくための教えが仏教となります。
是非、この機会に、しっかりと仏教をこれから修習して頂くことにより、その流れを善いものへと調えて頂けましたら有り難いものになるかと存じます。
川口英俊 合掌
謝った方がスッキリする。「反省」は実体のない概念
謝っても、相手が許してくれるかどうかはわかりません。
それでも、謝った方がスッキリするとは思います。
謝っていない間は、あなたがボールを持っているのです。
謝ることで、そのボールは相手に渡せます。
あとは、そのボールをどうするは相手次第。あなたは自分のできることをやったと、少しはスッキリできるかもしれません。
「反省」という言葉は、人間が造り出した概念で、実体がありません。
実体のない「反省」についてあれこれ考えるのは、実在しないペガサスについて「ペガサスは体重何キロになったら大人のペガサスだと言えるのか?」と悩むようなもの。
実体のない言葉・概念にあまりこだわらないでください。
質問者からのお礼
ご回答して頂いた全てのお坊様、
ありがとうございました。
今一度、自分と向き合います。
本当にありがとうございました。