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普通になれ、の普通がわかりません…

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自分の心がコップとして、気持ちが水とすると
常にいっぱいいっぱいで何かがあるとすぐに溢れ出て落ち込んだら怒ったりしてしまいます。

気分障害の治療を始めて一年と少しがたちました。パニックや発作が起こらなくなってきたので、少しはよくなってきてはいるのかなぁ?と感じるものの、病気だと自分がはっきり理解する前と、今の自分の差が大きすぎて、焦ります。
ストレスが出てくると、それを溜めないようにする考え方を頭で変換することでいっぱいいっぱいで、心のコップを大きくしたくても、そこまで気持ちに余裕もできません。
嫌なことを終わりまで我慢はできても、その後の反動で病気になったので、これは我慢をしていいのか、でも我慢しない私は人と比べてわがままなのかなぁとか、良い方向に考えることができません。

普通になれと、小さい頃から両親から言われてきたのですが…昔からも今でも普通ができません。
普通にストレスケアができて、普通に生活できるようになりたいです。
普通ってなんなんでしょうか?
我慢できないのも、病気なのも、心がいっぱいいっぱいなのも、わたしは普通じゃないんですよね?
どうしたら、普通になれますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

普通を意識したら普通じゃなくなるかと

歩くときに上手に歩こうなんてしている人はいません。
それが一番のふつうであり、自然体であり、ヘイヘイ凡々なのです。
普通であろうとすると「思考」が割り込みします。
すると思考がフィルターになって本当の普通じゃなくなります。
この文字を見ている自分をみてみましょう。
普通に見ていたはずです。
ふつうなんて意識もせずに。
そとのおことを聞いていた自分をみつめてみましょう。
普通に聞こえていたはずです。
呼吸に意識を向けてみましょう。普通に呼吸していたはずです。
瞬きも、座っていることも、手が動いていることも…すべてが元来ふつうなのです。
自然を作ろうとして、自然派とか、ロハスロハスした感じですと、どこまでいっても人為なのではないでしょうか。本当に自然になるには、自然らしさという臭みもなくなってこそ。
故に禅宗では悟り臭き悟りは真の悟りに非ず、と。
味噌臭い味噌はまだ「練れて」いないのです。
仏教の中にもコテコテなものがあります。私はそれらしさに縛られることが苦手なので、現在お坊さん臭さから出家している最中で回答も顔写真もある意味普通じゃありません。
やっぱり普通が一番ですよ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「普通」も「空」

marino.様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「普通」って何なのか、拙生も正直なところ分かりません・・

仏教的には、全ては、「空」であり、「実体の無い」ものとして扱いますため、「普通」のモノ・コトも、「特別」のモノ・コトも、「空」であることに変わりはない、「平等」なるものとなります。

ただ、モノ・コトは、何も無いという訳ではありません。存在も、現象・事象も、あるにはありますが、それらは他に依って成り立っている「縁起」なるものとしてあり得ているに過ぎないものとなります。

他に依ってというのは、簡単なものとしては、因縁、つまり、原因や条件に依って、ということになります。

しかも、全ては因縁次第で移ろいゆきます。

移ろいゆくものを、「これだ」と決めることは、本来できないのです。ですから、「これが普通だ」と決められるものも無いのであります。

とにかく、あまり「普通」が何かにこだわらずに、ご自身が安心して過ごしていくためにはどのような因縁が必要かを考えて、それを調えていくことが大切となります。

あまり無理されずに、何か生活にちょっとした癒しとなるアクセントを入れられることから始められるのも。散歩や無目的なぶらり歩き、ぼーっとする時間、旅行や映画、ショッピング、寺社巡りなど、何かどうでしょうか。。

川口英俊 合掌

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